乙訓坐大雷神社の論社ー向日神社に合祀された火雷神社の1

長岡京市の角宮神社から東に徒歩15分ほどの場所に旧府社の向日(むこう)神社があります。住所は京都府向日市向日町(むこうちょう)北山65番地。向日神社が向日市の地名の由来といわれています。
向日神社の祭神は向日神(むかひのかみ)、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、玉依姫命、神武天皇です。向日神社には建角身命は祀られていません。
向日神社は二つの神社が合併されており、一つは『延喜式神名帳』の向(むかへ)神社。こちらは小社で論社はありません。もう一つは乙訓坐大雷神社で、名神大社。論社の一つが角宮神社です。祭神のうち、向日神は向神社の祭神であり、火雷大神以下の三神が神名帳の「大雷神社」の祭神になります。「大雷神社」がルーツとされる角宮神社は現存しますが、もう一つの火雷神社は向日神社に合併されて単独の神社として存続していません。神名帳では大雷神社のほうが大社で、向日神社の前身である向神社が小社ですから、吸収されたほうが格が上ということになります。ただし後述の神社による由緒の説明を読むと、火雷神社の宮司が合併後の向日神社の宮司になっています。また角宮神社と向日神社は近接していますから、角宮神社と火雷神社が混同されていることがありますから注意が必要です。角宮神社と向日神社に合祀された火雷神社は全く別の神社であり、由緒も異なっています。
向日神社の由緒について神社の説明は以下の通りです。元は二つの神社だった。鎮守の森に乙訓座火雷神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)と向日神社の二つの社があった。1212年後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げて敗れた。承久の乱とも承久の変ともいう。乙訓座火雷神社の宮司は朝廷側について敗れ京都府福知山市にあった荘園「六人部荘(むとべのしょう)」隠れた。許されて戻ったのは1275年、社殿は荒廃していた。以後向日神社に併祭して向日神社になる。古代の都「長岡京」は向日神社を取り囲んで造られた 向日神社は京都盆地の南西、乙訓の地にあるこの地の中ほどに南北に延びる丘陵にあり、向日神社はその南端にある。古代この丘は長岡とよばれ、784年この丘を取り囲んで都ができた。「長岡京」である。都の中心「長岡宮」は向日神社の麓に造られ、東へ200m行ったところに大極殿があった。ご祭神火雷神(ほのいかずちのかみ)は上賀茂神社のご祭神別(わけ)雷神(いかづちのかみ)の親神様 向日神社は古社である。祀られている火雷神(ほのいかづちのかみ)が「続日本紀」に登場するのは702年だが、いつの頃からあるのかは分からない。鎮守の森に3世紀末に造られた元稲荷古墳(もといなりこふん)があり、弥生時代の末に高地性集落があった。火雷神は上賀茂神社のご祭神別雷神の親神様、賀茂氏はこの地から分かれて賀茂の地に住んだ。賀茂氏がこの地にやって来たのは5世紀の中ごろ、秦氏も同時期にやって来て継体天皇に与力した。継体天皇が乙訓の宮を造ったのが518年、火雷神を祀ったのもこのころだろう。宮司の六人部家(むとべけ)は秦氏の出身とされ95代を数える。邪馬台国と交流があった。もう一柱のご祭神「向日神(むかひのかみ)」は718年この地に遷座した。500メートル北の五塚原古墳(いつかはらこふん)に祀られていたらしく、この古墳は箸墓古墳(はしはかこふん)の三分の一の相似形で築造年代も近い。箸墓古墳は卑弥呼の墓だといわれており、そう考えると向日神は邪馬台国とも交流があった。とあります。


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