丹敷浦はどこ?

『紀伊続風土記』の丹敷浦の記述についてです。ズバリ那智の赤色や潮崎荘(串本)の二色はでっち上げで、真実の丹敷浦は二木島であり、二木島から曽根浦に越える曽根次郎坂•曽根太郎坂が急坂であることから、ここが荒坂だとしています。また長島郷に錦浦があり(大紀町錦のこと)、この錦浦はこの付近の大きな集落であり、曽根や長島は昔丹敷戸畔が支配していた場所で神武軍がこの地に進入してきた時に防ごうとして、この荒坂(曽根次郎坂と太郎坂)で滅ぼされたとあります。
曽根浦には、尾鷲市の飛鳥神社があります。飛鳥神社の章で説明していますが、少し補足します。飛鳥神社が地域の総鎮守となったわけとして、戦国時代に盗賊に荒らされ治安の悪化に困った村人が、盗賊退治のために近江の国から招いた佐々木宇衛門(左右衛門)は、名前を曽根弾正(だんじょう)と改めてこの地を支配しました。彼が飛鳥神社や寺の管理を行ったことから総鎮守となりました。
曽根次郎坂•太郎坂は曽根と二木島を結ぶ道で、世界遺産に指定されています。紀勢本線も賀田から二木島まで曽根トンネルでこのルートを通ります。したがって賀田湾と二木島湾は北と南という位置関係にあり、途中の甫母峠(305m)は中世には志摩国と紀伊国の境でした。「次郎坂-太郎坂」という名前は、ここが国境であったところから「自領」、「他領」の意味から出たそうです。
丹敷浦は、丹敷戸畔の本拠地であり、そこで滅ぼされたとされている重要な場所です。その場所については、候補地が5ヵ所あります。その場所は三重県の大紀町錦、熊野市二木島、和歌山県の新宮市三輪崎、那智那智町浜の宮、串本町二色であり、それらについては説明しました。
三重県側と和歌山県側でははっきりした違いがあります。三重県側は本居宣長や本居内遠という著名な国学者のお墨付きがあります。特に内遠は二木島であると断定しています。その主張は彼が編纂に関わった『紀伊続風土記』の記述に反映されています。和歌山県側にはそういう保証はありません。
和歌山県側では、丹敷戸畔を祀る祠や墓とされるものがあり、神武軍との激しい戦いを物語る地名があります。三重県側にはそういう伝承がみられません。
私は「丹敷浦の候補地ー新宮市三輪崎」で丹敷浦の場所を決める時のポイントを三つ挙げました。①は丹敷戸畔の伝承があること、②は暴風によって流されたか戻されたか、③は新宮にいると推定されるタカクラジが、タケミカヅチに託された剣を持ってまさに「押っ取り刀で駆けつける」ことができる場所かどうかです。①は5ヵ所ともクリア。②はどこで暴風に遭遇したかで違いますが、おそらく三重県側が押し流されたと考えられます。そうすると③のタカクラジからの距離が決め手になります。一番近いのは現在でも新宮市の一部である三輪崎です。次は那智勝浦。電車ですと三輪崎、紀伊佐野、宇久井、那智。陸路ではなく船を使うとより早く着きます。二木島と串本町二色はほぼ等距離。ただしここへは船で、しかも御船祭の早船か、二木島祭の関船のような、ある程度の漕ぎ手の漕ぐ船で行く必要がありますが、到着できない距離ではありません。問題は大紀町錦。例え船で必死に漕いだとしても短時間で着くことは不可能です。どうしてこの場所が候補地になっているのか不思議です。
私は神武のコースそのものに矛盾があると考えています。それについては「丹敷浦はここだ!」で説明します。


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