熊野三党の始祖伝承

熊野三党とは榎本、宇井(丸子)、鈴木(穂積)の各氏を言います。伝承では榎本氏が長男、宇井氏が次男、鈴木氏が末子の三男とされています。そのうち最もよく知られているのが鈴木氏で、このブログでも鈴木氏については多くの章に亘って書いています。兄弟の中でも末子が一番活躍するというケースが多く見られます。神武も四男の末子です。鈴木氏が有名になったことから、熊野三党の各氏は兄弟であり、その父親は『記紀』で神武の危機を救ったとされて著名な高倉下ということになったのでしょう。さらに高倉下だけでなくて、いろんな始祖伝承が伝えられているのは、熊野三党の権威付けの手段と考えられます。その始祖伝承のうちで、ウィキペディアで取り上げられている『熊野権現縁起』では、榎本、宇井、鈴木、各氏の由来について、次のように記しています。
「第五代孝昭天皇のとき、紀伊の国の山奥、千尾の峰に神人が龍に乗って御姿をあらわした。人々があがめ奉るなかに、一人の男が進み出て、十二本の榎のもとに神を勧請した。神は男の殊勝な心がけを嘉し、榎にちなんで、男に榎本の姓を賜った。その弟は丸い小餅を捧げた。そのゆかりで丸子(のちに宇井、鵜居)の姓を与えられた。第三の弟は稲の穂を奉納したので神は穂積の姓を授けた」とあります。この中にある神が降臨したという「千尾の峰」は神倉神社のある「千穂ヶ峰(ちほがみね)」とされています。新宮市内にありますから、「紀伊の国の山奥」というイメージの場所ではありませんが。この『熊野権現縁起』の伝承も、藤白鈴木氏の系図にある千翁命でも「稲」がキーワードになっています。稲は穂積、そしてスズキとなって、鈴木氏が主役となる始祖伝承と言えます。
その鈴木氏ですが、牛鼻神社の鎮座する三重県南牟婁郡紀宝町鮒田(ふなだ)に鈴木屋敷跡がありました。ネットの「コトバンク」では『日本歴史地名体系』を引用して、次のように書かれています。
『紀伊続風土記』の南牟婁郡鮒田村には、鈴木屋跡跡として「村中川端にあり、熊野の旧家鈴木氏の宅地の跡といひて大なる塚あり、塚の上に胆八樹の老木あり、妄(みだり)に枝なと折取れは其者忽狂乱すといひ伝ふ、又毎年正月には此塚に粥枝なと立て村民尊仰す、鈴木の森と称すれとも、鈴木氏亡絶せしも久しき事と見えて、今其伝を知る者なし」とあり、もとは小高く盛土してあった屋敷跡は田地として造成されたそうです。鈴木屋敷跡は相野谷(おのだに)川右岸の紀宝町鮒田字岸ノ上(きしのうえ)の田の中にあり、この辺りの川を鈴木ヶ淵と呼び、かつて熊野大神に長く仕えた鈴木氏の屋敷跡と伝えられています。という内容になっています。塚の上にあったという胆八樹ですが、現在もあるかどうかわかりませんが、ホルトノキのことで、ヅクノキとも言います。ホルトノキはポルトガルの木という意味で平賀源内が命名しましたが、実際は日本の在来種です。ホルトノキ科の常緑広葉樹で暖地ではよく見られます。オリーブに似た実をつけます。
また鮒田には弁慶の誕生地という伝承があり、それにちなんだ弁慶楠という木がありました。この木は鈴木氏の先祖が植えたとも伝えられ、寛政7年(1795)に失火で焼けてしまい、現在「弁慶産家楠跡」の石碑があります。鮒田には弁慶の産湯と伝える場所もあります。
紀宝町鮒田は、熊野川を挟んで速玉大社の対岸に位置しますが、牛鼻神社や鈴木屋敷や弁慶誕生の場所など興味深い伝承があります。


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