紀伊続風土記にみる阿須賀神社(3)ー徐福と愛徳山

『続風土記』で阿須賀神社の最後に「河面宮」が出てきます。今はこの名前の境内社はないので、何と読むのか。「かわも」或いは「かわつら」でしょうか。徐福が祀っていた神社で祭神名はわからないとあります。
新宮駅を出ますと左前方にハデな中国風の門が見えます。「徐福公園」です。平成6年(1994)8月、徐福の墓を中心に整備されました。徐福は中国の歴史書『史記』に書かれている人物で、いわば日本の修験者のルーツのような人で秦の始皇帝に申し出て不老不死の薬を探しに船出します。3000人の童男童女と自工(技術者)さらに財宝を乗せて。『史記』によると彼は東へは行かず、どこか広い平野と湿地を得てそこの王となったとあります。具体的な場所が書いていないため日本に来たということになったのでしょう。日本の中でも徐福が渡来したと主張する場所はかなりあります。新宮では徐福が来たのは第七代孝霊天皇の時代とされ、阿須賀神社の創祀とされる孝昭天皇より二代あとになります。ちなみに始皇帝の在位はBC221~210年ですから、この伝承に基づくと孝霊天皇もその頃の人ということになります。始皇帝はともかく孝霊天皇の時代というのは伝承ですからあくまでも参考に。しかし始皇帝の在位はわずか11年、49歳で亡くなっています。織田信長と同じですが始皇帝は病死です。権力を手にした始皇帝が不老不死を願う心情は理解できます。それに付け入った徐福もしたたかです。さらに熊野ではおまけがあって、徐福が熊野で見つけた不老不死の薬が「天台烏薬(てんだいうやく)」。クスノキ科の植物の健胃薬です。実が黒いからカラスの薬。天台は御垂迹縁起にある天台山にちなみます。天台宗との縁が深いこと、熊野の神の使いが八咫烏。熊野にピッタリです。ただこの植物が渡来したのは吉宗将軍の享保年間で時代が合いません。阿須賀神社の境内には徐福を祀る徐福ノ宮があり、近くには「徐福上陸之地碑」があります。今も伝承が根強く残っています。
『続風土記』に引用している『愛徳山熊野権現縁起』ですが、和歌山県日高郡日高川町にある上阿田木(かみあたぎ)神社と下阿田木(しもあたぎ)神社に伝わるものです。『神道体系神社編43熊野三山/神道体系編纂会編1989』に収録されているそうです。「上」は初湯川(うぶゆがわ)、「下」は皆瀬(かいぜ)に鎮座。「愛徳山(あいとくさん)」の名は、「上」の鎮座地が初湯川愛徳山というのに由来します。神社の由来は熊野権現の神託により、延喜22年(922)に新宮から、この地より日高川を遡った寒川(そうがわ)に創建され、その後こちらに遷座しました。もともとは一つでしたが、「下」は寛治(かんじ)5年(1091)に同じ村内の越方(こしかた)に遷り、さらに現在地に遷座しました。祭神は「上」の主祭神は伊弉冉命、配祀神として伊弉諾命、火結命、事代主命、速玉男命、奇御気野命、飛鳥神ほか。「下」は主祭神が伊弉諾命、伊弉冉命、配祀神は火結神、速玉之男命、事代主命、櫛御氣野命、他合祀神。
かつて「上」は「上愛徳六所権現」、「下」は「愛徳山六所権現」と称しました。伊弉諾、伊弉冉、火結神、速玉神、事代主、櫛御氣野の六神を祀るためです。火結(ホムスビ)はカグツチと同じ、櫛御氣野(クシミケヌ)は別の機会に考察します。祭神名の表記は和歌山県神社庁のサイトによります。この祭神で注目されるのは、どちらにも事代主が祀られていること。事代主と事解男の関係は「紀伊続風土記にみる阿須賀神社(1)」をご覧ください。「上」の祭神で「飛鳥神」とあるのは事解男かミケツカミのどちらかでしょう。
「上」の4月29日の春祭りは「京より南にない祭り」と言われる壮麗なものです。


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