石切神社が伝えるニギハヤヒの伝承(2)

こうして鳥見の里を治めるようになったニギハヤヒは、水が豊かで耕作に適したこの土地に水田を拓き、大きな実りをもたらすようになりました。これが近畿地方の稲作文化の初めです。
一方、島見の里が繁栄を極めていた頃、イワレヒコが日向の高千穂から東へ進行を続け、やがて河内に上陸し孔舎衙坂(くさえざか)でナガスネヒコと対峙します。この頃既にニギハヤヒは亡くなっており、代わって鳥見の里の長となっていたのはウマシマヂでした。ウマシマヂは「天羽々矢」と「歩靱(かちゆき)」を、日の御子である証として、イワレヒコに差し出しました。するとイワレヒコからも同じものが示され、お互いに天孫であることが明らかになりました。ウマシマヂはナガスネヒコにイワレヒコへの帰順を促し、自らも一族を率いてイワレヒコに忠誠を誓い、広大な稲作地や所領のすべてをイワレヒコに捧げました。こうして大和の統一が成し遂げられ、イワレヒコは始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト=神武天皇)として即位しました。
この石切神社の社伝と『記紀』を比べた場合に最も大きく異なる点は、神武に帰順したのはニギハヤヒの子供のウマシマヂで、この時点ではニギハヤヒは亡くなっているということです。『記紀』では、ニギハヤヒが帰順を拒むナガスネヒコを殺害してから神武に降伏します。
ニギハヤヒもウマシマヂも石切神社にとっては祭神ですから、当然身贔屓はあるでしょうが、この社伝では好戦的な神武に対して平和友好的なニギハヤヒとウマシマヂという構図が見て取れます。実際に、神武が好戦的であるということは、『記紀』の記述からもよく分かります。神武が大和入りにあたって最初の本格的な戦いは、社伝にもある孔舎衙坂の戦いですが、この時の相手はナガスネヒコです。神武はこの戦いに負けて紀伊国に行きますが、そこでどういう理由があったか分かりませんが、名草戸畔と丹敷戸畔を滅ぼしています。その後、大和に入ってからも天皇になるまでに地元の豪族を戦いによって滅ぼしています。そういう好戦的な性格が戦前の軍部にとっては都合の良いものとして大いに利用したと言えます。反対にナガスネヒコは朝敵になりますし、ナガスネヒコに主人として仰がれたニギハヤヒ(石切神社の社伝ではウマシマヂ)は、そのナガスネヒコを殺害して神武に寝返った裏切り者という扱いになります。しかしニギハヤヒも神武もどちらもアマテラスの一族です。ニギハヤヒとニニギは異母兄弟と言われていますから、神武よりはるかにアマテラスに近い存在です。そしてニギハヤヒはアマテラスから「十種の瑞宝」というパワー抜群のグッズをもらいます。さすがにこれだけのグッズは高天原にも一つしかなかったようで、ニニギには「三種の神器」を持たせます。十対三ですから、アマテラスがいかにニギハヤヒに肩入れしていたか分かります。
それほどのパワーを秘めた「十種の瑞宝」とは、どういうものなのか知りたいと思いませんか?
なお、このブログでは登場する神や人の名前は原則カタカナで表記しています。また石切神社はウマシマデですが、こちらはウマシマヂとしています。


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