御蔭神社と崇道神社は小野神社の旧社地?

前章の「小野毛人の墓誌が語るもの」の中で、座田守氏さんの論文では小野毛人の墓誌が発見されたのが出雲高野神社の境内となっていますが、この論文が書かれた後に再建された小野一族にゆかりの小野神社の方がふさわしいのではと書きました。小野神社とはどういう神社なのでしょうか。
『京都府式内考証』には、往古の小野神社は現在の御蔭神社であるとしており、上田正昭氏は『京都千年』で、小野神社の旧地に崇道神社が創祀されたのではないかと述べており、『式内社の研究』第3巻で志賀剛氏も崇道神社は小野神社の後であるとしています。一方『崇道神社誌』ではズンジョの森が小野神社の跡であるとしています。ズンジョの森とは、崇道神社の川向かいにある御旅所で、里堂と呼ばれる神輿庫の南側に2m位の石垣の上に明治時代までズンジョ(神所あるいは十三祠)の森があり、そこに祠が祀られていました。ここで注目されるのは『京都府式内考証』の記事です。ここでは御蔭神社の場所に小野神社があったということになります。小野神社と崇道神社との関係では、上田正昭氏や志賀剛氏は小野神社の場所に崇道神社が建立されたとし、崇道神社の社伝では神社の川向かいにあるズンジョの森に小野神社があったとしています。したがって小野神社の元の場所は確定できないのですが、この地域にあったことは間違いないということで、昭和46年(1971)に地元の人により崇道神社の境内社として小野神社が再建されました。小野毛人の墓は小野神社の裏手150mの山腹に位置しています。
『京都府式内考証』は正式には『延喜式内並国史見在神社考証』で、13巻からなり、明治初年に所在地などを確定しようとした調査で作成され、戦前の文献調査の際に「府下に於いての神社考証は此書を以て第一とす」と評価されています。
上田正昭(うえだまさあき、1927~2016)氏は日本古代史の研究者で京都大学名誉教授。『京都千年』は1974年毎日新聞社刊。『式内社の研究』(1977年雄山閣、全10巻)は志賀剛(しがごう)氏が長年の式内社研究の成果をまとめたもので、第2巻が宮中•京中•大和編。第3巻が山城、河内、和泉、摂津編。『崇道神社誌』は上高野史蹟顕彰会の編集で1975年に崇道神社より刊行されています。
崇道神社は桓武天皇の実弟でしたが、延暦4年(785)に起きた藤原種継(たねつぐ)の暗殺事件の首謀者として捕らえられて乙訓寺に幽閉された後、淡路島に配流される途中に無実を訴え絶食して亡くなった早良(さわら)親王を祀っています。親王の死後に桓武天皇の周囲では不幸な出来事が続き、また都では病気が流行したため、早良親王の祟りだと恐れられ、その鎮魂のために延暦19年(800)崇道天皇と追号され、淡路国津名郡の墓を大和国に移しました。当社の創祀年代は不明ですが、清和天皇の貞観年間(859~877)以降と推定されます。この地域は都の鬼門の方角であり、祟りをなすほどの強いパワーを持つ親王を鬼門の守護としたということになります。そういう経緯からもあってこの神社には怨霊にまつわる伝承があります。
藤原種継(737~785)は藤原式家の出身で桓武天皇の長岡京遷都の責任者。
崇道天皇の墓は奈良市八島町にある八島陵(やしまりょう)とされています。円墳。
近くの町内には崇道天皇社を名乗る小社がいくつか鎮座しています。八島陵内にかつて存在した崇道天皇社から勧請されて創建されたもので、いずれも主祭神として早良親王を祀っています。


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