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フォンターネ 山小屋の生活を読んで(2024.1.10)

こんばんは。投稿がずいぶんお久しぶりになってしまったももこです。
いまはツイスト揚げパンを食べながら書いています。

今週読んだ一冊は、『フォンターネ 山小屋の生活』著:パオロ・コ二ェッティ です!

心に残った文↓



人工的な香水のにおいまで、距離を隔てたとこからでも鼻についた。僕は自問せずにはいられなかった。自分以外の人間を許容できない僕のほうに問題があるのだろうか、それとも、土地をずかずかと侵さずには通ることもできない彼らが悪いのだろうか。

フォンターネ 森の生活

ただし、僕たちが似ていたのは身体的な特徴ではなく、性格的な部分だった。自分自身をどのように捉え、他人とどのように接するか。二人とも理想を追い求める傾向があり、過酷な人間関係のなかで生きていくには皮膚が薄すぎた。

フォンターネ 森の生活

↑の「皮膚が薄すぎる」という」表現めっちゃすき!!

山に籠って一定以上の期間耐え抜けば、別の人間になれるだろうと思っていたのだ。しかもその変化は不可逆だと。ところが、ことあるごとに以前の自分が頭をもたげ、そのたびに自己主張を強くする。

フォンターネ 森の生活

悲しいとき、方言でなんて言うか知ってるか?「長く感じる」って言うんだ。要するに時間の経過のことだ。悲しいときには時間がちっとも過ぎないように感じるだろうがな、郷愁で心が痛むときだろうが、独りぼっちで寂しいときだろうが、自分の人生に嫌気が差したときだろうが、そう表現するしかないんだ・・・・・。

フォンターネ 森の生活

どこへ行こうか。僕たちは尋ねた。わからない。とにかく行こう。

フォンターネ 森の生活


感想
私も時々、森に行きたくなる。満員電車で押しつぶされ、機械的なものにかこまれて、人間としての尊厳というか、大切な何かを失ってしまったと感じる時がある。現在23歳なのに、そんなことを考えている日々。
作者も同じだった。数学を勉強していた大学を中退し、執筆活動も思うようにはかどらなくなり森に逃げる。(逃げるといっていいのか・・?)
森に帰還したくなるのは、人間の習性なのかもしれない。
だけど、私は森に行く勇気がない。やはり現状を維持しようとする本能がはたらき、今日も機械的な雑踏にのまれていきている。
ときどきは、自然を浴びようと思った。スマホを捨てて、山へでるとまではいかなくとも、一冊の文庫本だけをもってカフェに行くとかでもいいのではないか。
2024年はどんな本たちに出合えるのだろうか。
そのどれもが私の人生に影響を与えてくれるように、私も受動的ではなく能動的に本からたくさんのことを吸収していきたいな。


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