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与える人は、与えられる

与える人は、与えられる」と僕は強く思っている。与える産物が自分の行動の結果であるならば、本質的には自分の時間を対象者に与えているということである。単純に考えれば、自己犠牲的に捉えられてしまうかも知れないが、その根底はもっと複雑に絡み合った人間同士の「想いやり」に支えられた関係性があると信じている。

自分の経験をベースに伝える方が良いと思う。僕は、大学時代に初めてプログラミングに出会い、大学1年の終わり頃から受託会社でアルバイトをさせてもらえる機会に恵まれた。その受託会社では、初めてのアルバイトの登用で、しかも僕はプログラミング初心者。HTML、CSS、Javascriptの基礎もわからず、RubyとRuby on Railsの違いも理解できていなかった時代だった。最初は地獄だった。そもそも社員の方が言っていることがわからないし、エラーが出まくりだった。僕が書いたコードは、後から見るとそっと社員によって上書きされてマージされていた。僕は無力だった。僕は自分で自分を許すことができなかった。何も成果を出していないのに、お給料が振り込まれる。そんな旨いアルバイトはないと思うかも知れないが、僕にとっては自分という存在を否定されているようで、地獄だった。

僕は、誰もやりたくないと思うような仕事を率先して行うようにした。それは、HTMLやCSSをただマークアップするだけだったり、簡単なプログラムを書くことであった。それが終わると「僕ができることないですか?」と執拗に聞いていた。そして、家に持ち帰ってはこっそりと作業して、次の日には終えているように心がけた。もちろん、その時間は自分への投資だと思って、勤怠はつけなかった。それが要因なのかはわからないが、徐々に難しい実装タスクを教えてもらいながら任せてもらえるようになった。詰まったところは持ち帰って自分の宿題にした。華の大学時代、皆がサークルなど大学生活を桜花する中、僕は貪るようにプログラミングのめり込んでいた。正直、プログラムを書くことは時間がかかる。もっとも時間がかかるのは、詰まったところを調べる作業で、これを抜きにしては積み上がる成長はないと思っている。最終的には、一つのプロジェクトを任せてもらえるくらいに僕は成長することができた。

結局、自分に何もないならば誰もやりたくないような簡単なタスクから入るしかない。それらを率先してこなせるような栽培マンは誰かを助けることになる。本来、仕事に人間の感情を入れ込むのは間違っているかも知れないが、僕らは感情を持った人間だ。頑張る人には、さらに成長機会を与えたいと思うし、がむしゃらな人には方法を教えてあげたくなる。そこには信頼関係が生まれる、と僕は思う。様々な人が一緒に働いている組織において、この人は仕事ができるなと思う人の多くは、気づきが多かったり、困った時に助けてくれ、それを忙しいのにも関わらず、自分の範疇以外なのにやってくれるような人だ。そういう人は、みんなからの信頼が厚く、成長機会となるような仕事が回ってくる。一方で、誰かの成果を自分の手柄のように扱う人は敬遠される。その人のためにもう二度と仕事はしたくないと思われてしまう。

結局のところ、一人の人間が一日でできる仕事の量なんて限られているし、精神と肉体の限界もある。より大きいプロジェクトは皆で一丸となって取り組む必要がある。それを任せされるのは、きっと「こいつならやってくれるだろう」と一番に思い浮かぶ人だ。社会に成長機会となる重要な仕事はゴロゴロと転がっているが、それを回してくるのは他でもない人間なのだ。

人間に感情がある限り、与えられた恩は巡りめぐって自分に返ってくる。そう僕は信じている。

※ 全て個人の考えであり、所属する組織とは全く関係がない

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