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阪神大震災の自衛隊の教訓「情報判明を待つことなく『拙速』対処を」

 阪神大震災が1995年1月17日に発生してから29年が過ぎて、この2024年1月17日、日本社会は「震災発生30年目」に入る。6434人の命を奪った阪神大震災で、防衛庁・自衛隊は創隊以来最大の規模で部隊を運用し、人命救助や被災者支援にその力を発揮した。一方で、その初動については「出遅れた」との批判を受けた。この派遣の部隊指揮にあたった陸上自衛隊中部方面総監部は「状況が不明な場合は、状況の判明をいたずらに待つことなく『拙速』で対処することが必要」との教訓を導きだしている。大災害が発生したとき、自衛隊は、国家のほぼ唯一・最大の実動部隊として、現場で救援の主力となることを期待される。朝日新聞の大阪社会部で1999~2002年に震災の取材・報道を担当したことのあるジャーナリストの一人として、筆者(奥山)は、震災発生30年目の節目を、自衛隊の災害派遣に関する法制度を改めるための検討の契機にしてほしい、と考え、本稿において改めて経緯を詳述することにした。(関連記事に「全国各地の自衛隊部隊を被災地にいかに迅速投入するか」、「阪神大震災、発生から30年目となる今年にある1記者が言ったこと」)

陸自中部方面総監部の阪神大震災行動史295頁

初日はほぼ現地の連隊任せ

 1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部の深さ16キロを震源としてマグニチュード7.3の内陸直下型地震が発生し、淡路市(北淡町)、神戸市、芦屋市、西宮市、伊丹市、宝塚市などにまたがる帯状の地域に大きな被害をもたらした。気象庁により「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」と命名され、それによって起きた災害は間もなく「阪神大震災」「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになった。約900人の関連死を含め6,434人が亡くなり、3人はその後も行方不明のままだ。

陸上幕僚監部の阪神大震災行動史429頁

 兵庫県知事の災害派遣要請は陸上自衛隊(陸自)の出先の姫路駐屯地司令になされた。防衛庁の訓令によれば、これをもって、防衛庁・自衛隊が全体として、災害派遣要請を受けたものとして扱われる。だが、実際にはその後ずいぶん時間がたってから、海上自衛隊(海自)、航空自衛隊(空自)には個別に県知事から災害派遣要請がなされ、そのあとに初めて、海自、空自に本格的な災害派遣の命令が下されている。

 主力となる陸自では、知事から災害派遣の要請を受けた姫路駐屯地の第3特科連隊が所属し、司令部の近隣で震災の被害が出た第3師団のみが災害派遣に動いた。それ以外の部隊(特に中部方面隊以外の部隊)は出動の態勢を整えていたにもかかわらず、給水部隊など一部を除き、初日は派遣命令がおりなかった。

 このように阪神大震災では、初日の立ち上がり、全国の部隊の広域運用、陸海空の3自衛隊の統合運用が有効に機能しなかった。

  • 17日午前10時までに 陸自300人(近傍派遣)

  • 17日午前9時40分  輸送艦ゆら、護衛艦とかちに行動災害命令(阪神基地隊支援)

  • 17日午前10時    兵庫県知事から陸自姫路駐屯地司令に災害派遣要請

  • 17日午後2時     輸送艦みうら、さつまに航命

  • 17日午後4時までに  陸自1400人

  • 17日午後7時50分  兵庫県知事より海自呉地方総監に災害派遣要請

  • 17日夜        海自に災害派遣命令

  • 17日午後8時までに  陸自1700人

  • 17日午後12時までに 陸自2300人、そのほか4400人

  • 18日には       陸自9300人、そのほか8000人

  • 18日午後9時     兵庫県知事より空自中部航空方面隊司令官に災害派遣要請

  • 19日には       陸自9500人、そのほか8000人

  • 20日には       陸自13000人、そのほか8000人

  • 最大時2月9日     陸自18000人、そのほか7700人

 被災地で実際に人命救助の活動にあたったのは、自衛隊の中では、陸自の自衛官たちだった。しかし、初日、長く数十キロに帯状に広がる激震被災地に、その姿はほとんど見えなかった。

 第3師団の指揮下に属し、兵庫県の隣である大阪府に駐屯していた第37普通科連隊は初日、深夜まで駐屯地で待機したままだった。阪神高速道路が倒壊していたうえ、国道、県道が渋滞していたため、大型ヘリで神戸市内に移動せざるを得なかったが、その大型ヘリが足りなかったからだ。初日、千葉県木更津市の第1ヘリコプター団から8機の大型ヘリ(チヌーク)が大阪府内の八尾駐屯地に派遣され、神戸市内との間の輸送を担ったが、8機では足りず、第37普通科連隊はヘリの順番が回ってくるのを待たざるを得ず、そのまま日没を迎えた。

「自衛隊は出動しているのか」との苦情

 テレビや新聞で刻々と被災地の状況が報じられているのに、そこに当初、自衛隊員の姿はほとんど見られなかった。いてもたってもいられなくなった人たちがたくさんいたのだろう、東京の防衛庁・自衛隊には最初の3日の間に、「自衛隊は出動しているのか」などの苦情が700件寄せられた。

陸幕の阪神大震災行動史429頁

 愛知県など東海・北陸を隊区とする第10師団や広島県の第13師団の主力は、20日朝まで被災地に入ることを許されず、被災地の手前で足止めされた。

 17日午後、被災地の東端に近い兵庫県伊丹市にある中部方面総監部で、幕僚たちの間には2つの意見があったという。兵庫県を担当する第3師団だけでは足りないのではないか、第10師団や第13師団を入れるべきではないのか、中部方面隊全部でやったほうがいいのではないか、という意見。もう一つは、第3師団に任せたほうがいい、という意見。

 朝からテレビで空撮映像をふんだんに見ることができた東京とは異なり、それじたいが被災している中部方面総監部では、当初、停電のためにテレビを見ることさえままならず、災害の全体状況をつかめていなかった。どの程度の大きさの災害なら、どの程度の規模の部隊を投入するべきなのか、という基準もなかったし、事前の計画もなかった。鶏を裂くに牛刀でするということにならないか。とりあえず状況が明らかになるのをもうちょっと待ってみよう--。これが17日昼の中部方面総監部の判断だった。方面隊の全力を投入しようと中部方面総監が決心したのは翌18日午前3時だった。

方面隊全力投入の決心は21時間後

 震災発生の翌日、すなわち1995年1月18日午前、佐々木英嗣・第10師団長(愛知県名古屋市)は待ち続けていた。2001年夏の筆者の取材に対する佐々木さんの説明や同師団の『災害派遣行動史』によれば、準備命令は出たが、推進命令が出ない。「神戸に近いところまで推進させてくれ。できれば、伊丹まで行きたい」と中部方面総監部に催促させた。命令が出たのは18日午後1時10分。「京都まで進め」という命令で、5分後に出発した。18日夜に京都に着き、大久保駐屯地に入った。そして、19日はまる1日、そこで待機した。「私もわかりませんが、いろいろあったんでしょうか」と佐々木さんは2001年に筆者(奥山)の取材に振り返った。

 地震発生から60時間が過ぎた19日午後5時、指揮下の連隊長たちを前に、佐々木師団長は次のように訓示したという。翌日未明に被災地に入る命令が出る見通しだった。他方、震災発生から72時間が間もなく過ぎようとしていた。

 「これから以降3日間くらいは、我々は寝ないで勝負しないと、人の命を助けることできない。残りの時間がない」
 「この作戦に参加したことを、あとで誇りにできるような行動をとろう」
 「オーバーしてやりすぎたということで後で問題になったら俺が責任取る」

 実際、第10師団は、入った神戸市東灘区など被災地でまとまった宿営地を設けなかった。佐々木さんによれば、「作戦地域と自分たちが宿営する地域をイコールにしちゃった」という。時間がないなかでは、結果的にはむしろそれがよかったという。「最初は隊員は大変でした。寝るところもトイレも何もない状態で、2日間か3日間はほとんどそこで(人命救助活動を)やりました」と佐々木さんは2001年の筆者(奥山)の取材に語った。

 結果的に、震災が発生した17日当日は兵庫県内の連隊が災害派遣を担い、18日から20日朝までは近畿一円の第3師団が災害派遣を担い、20日朝以降は中部方面隊が主導して中国地方や東海・北陸地方からも部隊を投入した。状況把握とともに指揮が組織の上層部に転移していった。のちの2001年にこの経緯を検証した際の筆者(奥山)の見方によれば、こうした逐次投入は誤りであり、テレビ局の報道に基づいて状況を比較的容易に把握できた東京で、最初から組織のトップ、すなわち防衛庁長官が指揮権を発動して広域的に部隊を動員し、最大限の部隊を速やかに被災地に投入するべきだった。

災害派遣行動史に書いてあること

 防衛庁の陸上幕僚監部(陸幕)や各部隊の司令部は、阪神大震災被災地への災害派遣を終えた後、「阪神・淡路大震災災害派遣行動史」などと題して一連の経緯を総括する文書を作成した。それらは部内資料として扱われているが、そのなかで、第10師団の行動史だけ、国立国会図書館に所蔵され、一般に公開されている。第10師団以外の部隊の「行動史」を含む関連文書について、筆者(奥山)は2001年度上半期、施行されたばかりの情報公開法に基づく開示を防衛庁に請求し、そのほとんどの写しの提供を受けた。

 自衛隊が出遅れたとの批判について、陸上幕僚監部はその行動史のなかで、「48時間を過ぎると救命率が急落することや(中略)死と隣り合わせの状況にいた住民の思いや被災者の心情が批判の背景になっていることを理解する必要があろう」と自省し、「国民のニーズは迅速な初動にある」と総括している。

陸幕の阪神大震災行動史433頁
陸幕の阪神大震災行動史433-434頁

 「自衛隊の派遣が遅く、また、過小だった」などの批判のうち、中国地方の第10師団、東海・北陸地方の第13師団などの部隊を直ちに被災地に集中するべきだったとの部分について、当事者の中部方面総監部は「謙虚に受け止めたい」としている。

陸自中部方面総監部の阪神大震災行動史295頁

 陸上幕僚監部は「3日以内に大きな隊力を投入して救出活動を開始するとともに、当初3日間は夜間を徹してでも捜索活動を行うことが必要である」との教訓を導いている。

陸幕の阪神大震災行動史429-430頁
陸幕の阪神大震災行動史439頁

 陸幕はまた、災害発生初期には、ヘリコプターで部隊を移動させるべきだとの教訓も抽出している。

陸幕の阪神大震災行動史438頁

「隊区主義」へのこだわりとその弊害

 自衛隊にとって、阪神大震災は数万人規模の隊員の実働を数カ月にわたって維持した過去最大の実行動であった。それまでは、災害派遣といえば、伊勢湾台風(1959年)と三八豪雪(1963年)を除けば、多くは連隊レベルで済む話であり、防衛庁長官など文民(シビリアン)は一つひとつ関与するまでもなかった。すなわち、都道府県知事の要請を受けた連隊長の判断で部隊を動かしていた。

 こうした「隊区主義」ともいえる発想によって、阪神大震災でも当初は前例を踏襲して出遅れた。後に中部方面総監が指揮を執って2万人規模の部隊を動かしたものの、中央機関である陸上幕僚監部や防衛庁長官は見守る姿勢に終始し、最後まで陸海空の統合部隊を編成しなかった。内閣総理大臣、防衛庁長官ら政治家はほとんど指揮命令に関与しなかった。

第3師団行動史172頁

 兵庫県を隊区とする陸自の第3師団は、その阪神大震災での経験から「大震災の場合においては『隊区主義』に拘泥することなく師団統一による部隊運用を考慮する必要がある」との教訓を抽出し、陸上幕僚監部は「担任部隊の対処能力を超える場合は、上級部隊指揮官が自ら指揮をとって全般統制を実施することが必要である」との教訓を抽出している。ここでいう「上級部隊指揮官」は、1方面隊の対処能力を超える震災である場合、防衛大臣もしくは総理大臣を指すことになる。

陸上幕僚監部の阪神大震災行動史438頁

防衛庁長官の「反省」の筆頭事項は?

 阪神大震災発生の際の防衛庁・自衛隊のトップ、玉沢徳一郎・防衛庁長官は、1995年6月9日の衆院安全保障委員会で、「まず第一に、阪神・淡路の地域におきましては大震災計画というものが立てられていなかったということが反省材料であります」と答弁している。

 「つまり、東京を中心とする南関東の大震災計画が立てられて、法制化されておるわけでございますが、この場合におきましては、震災発生と同時に、東京都知事から防衛庁長官に要請がありまして、私の指令のもとに全国の部隊5万人を動員してこの地域の救済に当たるという形になって、この場合は、トップダウンということになっておるわけです。」

 しかし、阪神・淡路の場合は、そうした計画がたてられていなかった。そして、ボトムアップの対応がとられた。

 「都道府県がその災害に対応できない場合におきましては、自衛隊に都道府県知事から要請を行うことができるということになっております。その要請する先は3自衛隊となっておるわけでございますが、陸上自衛隊の場合におきましては、姫路におる第3特科連隊でございます。(中略)第3特科連隊が対応する場合におきまして、これだけではとても十分できないという判断が行われた場合におきましては、第3師団の師団長に権限が移る。さらにまた、第3師団長から、これは1師団では対応しかねるという場合におきまして、初めて中部方面隊の司令に上がっていく、こういう形になっておるわけでございます。 (中略)最終的には中部方面総監の指揮のもとに(中略)とりあえずまず中部方面隊の各師団からの動員を図り、さらにはまた、全国からの動員を図りながら救済活動に当たった、こういうことでございます。  つまり、大震災計画というものが立てられていない場合におきましては、災害の場合は、連隊単位から上級に上がっていって、そこで指揮命令が行われる、こういうふうにお考えをいただければ御理解いただけると思います。」

 このように説明した上で、玉沢防衛庁長官は次のようにも述べている。

 「日本じゅうが大震災になる可能性があるわけでございますから、南関東大震災計画や東海大震災計画等と同じようなものを全国にまずつくりまして、そして、発災と同時に、要請に基づいて防衛庁長官が命令を出しまして派遣される、こういうことが大事ではないか、こう思うわけでございます。」

 その後、防衛庁・自衛隊は、近畿など主要な地域について、大震災対処の計画をたてた。1995年、各方面隊レベルで大都市直下地震を想定した増援計画を次々と策定し、97年には、南関東大震災の増援計画も大幅に手直しした。さらに99年には、空自の輸送機の活用などを盛り込んだ3自衛隊の統合計画も新たに作った。防衛省は2020年版の防衛白書で「中央防災会議で検討されている大規模地震に対応するため(中略)各種の大規模地震対処計画を策定している」と胸を張るかのように述べている。日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震について、中央防災会議が2006年、対策推進基本計画を策定しており、このため、おそらく防衛省・自衛隊でも対処計画を策定し、その結果として、2011年の東日本大震災の際に防衛省・自衛隊は迅速に大規模な派遣をなしえたのだろう。

 しかし、「中央防災会議で検討されている大規模地震」の発生地域に該当しない地域を含め「日本じゅう」を対象にそうした計画をたてる作業はなされているのだろうか。もしなされていないのだとすれば、阪神大震災の教訓に照らして、その現状は看過されるべきではない。玉沢防衛庁長官の「南関東大震災計画や東海大震災計画等と同じようなものを全国にまずつくり」という言葉が言葉だけに終わってしまったことになるからだ。

 筆者の私見によれば、「日本じゅう」のどの地域であっても、マグニチュード7を上回る地震が人の居住する内陸直下50キロ以内の浅さで発生したときは、ただちに政府は「トップダウン」で自衛隊を動かし、広域運用するべきだ。それこそが、内閣や防衛大臣による自衛隊のコントロールであり、文民統制(シビリアンコントロール)の原則に沿っている。

存在するだけの自衛隊から実働する自衛隊に

 単純化して言えば、自衛隊は、発足して以来長らく、抑止力として存在することのみを期待され、実際に行動すること(実任務での働き)をほとんど期待されていなかった。実働することはなく、訓練のみに明け暮れていた。その自衛隊が1990年代以降、大規模な災害派遣、海外派遣、情報収集などに実働するようになった(ペルシャ湾掃海、カンボジアPKO、阪神大震災、有珠山噴火、インド洋給油、イラク派遣、中越地震、北朝鮮の核実験・ミサイル発射など)。日米安保体制の質的変化、日本列島の地震活発期入り、日本経済の成熟がその背景にあり、将来的にも、自衛隊はさまざまな局面で今まで以上の実働を求められ、迫られることになるだろうと予想される。これに伴って、「サイレントな防衛庁」「現業官庁」から「モノ言う防衛省」「政策官庁」への脱皮もなかば成し遂げられつつある。

 筆者(奥山)の私見によれば、こうしたなかにあって、大規模災害への対処で自衛隊を脇役にしておく現行の制度をいつまでも維持するのは、正しい政策選択肢ではない。「都道府県知事の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる」との自衛隊法83条は、自衛隊を災害対処の脇役に置く、あまりに古くさい定めであり、速やかに改正するべきだろう。その際には、災害対策基本法3条の以下の規定と整合させなければならない。

国は
 災害の発生直後その他必要な情報を収集することが困難なときであつても、できる限り的確に災害の状況を把握し、これに基づき人材、物資その他の必要な資源を適切に配分することにより、人の生命及び身体を最も優先して保護すること
 などの基本理念にのつとり、
 国土並びに国民の生命、身体及び財産を災害から保護する使命を有することに鑑み、
 組織及び機能の全てを挙げて防災に関し万全の措置を講ずる責務を有する。」

 国民の命を守る、という最も大切な国家の責務を果たすために、自衛隊を最大限に、かつ効果的に使いこなす知恵が、自衛隊を指揮する素人たるシビリアン(文官)には求められており、法制度もそれに合わせていく必要がある。すなわち、地方自治体任せではなく、国家の主体的な行動として、シビリアンたる総理大臣もしくは防衛大臣が指揮して、自衛隊を行動させなければならない。そのための法制を整えるべきだ。

 阪神大震災発生30年目となる2024年は、そうした検討と改正をなすべき節目にすべき、と筆者は考える。

参考資料

 陸海空の各自衛隊の各部隊の「阪神・淡路大震災災害派遣行動史」の全てをPDFファイルで本稿に添付することも筆者(奥山)において検討し、そのための準備をしたが、その著作権に配慮せざるを得ないため見送ることにした。本稿では最小限の引用にとどめた。そのほかに、著作物性がないと考えられる資料(時系列など)、著作権の目的となることができないと考えられる資料(通達など)のいくつかについて、それらは公共の関心事であり、それらをここに掲載することの公益性は大きく、著作権法の制約を乗り越えることができる、というふうに考えられるため、以下に添付することにした。

阪神大震災への初期対応に関する防衛庁資料

陸上自衛隊の「阪神・淡路大震災災害派遣行動史」

陸幕と中方の「阪神・淡路大震災災害派遣行動史」抜粋

 陸上幕僚監部と中部方面総監部の「行動史」から、初動に関する記述を以下に抜粋して紹介しておきたい。

 「県の防災組織の中に自衛隊(第3師団司令部、第3特科連隊、第36普通科連隊)が含まれてはいたが、自治体との協同訓練はもちろんのこと、自衛隊と県・市相互に互いの能力と果たすべき役割の理解が不十分であり、かつ、県・市側の受入れ態勢も不十分であったため、連携がうまく行かず、自衛隊の初動に影響を与えた。」(中部方面総監部『行動史』1頁)

 「平成6年度に神戸市で実施された石油コンビナート等総合防災訓練では、神戸市の意向により自衛隊の参加を断られている。神戸市等に対しては、過去自衛隊が協同訓練の実施を何度も提案していたが、実現しなかった。このため、防災に関する人間関係はもとより、災害発生時に相互に実施すべき事項の把握、被災状況の把握及び情報交換の態勢等相互の連携が、十分でなかった。」(陸上幕僚監部『行動史』56頁)

 「第37普通科連隊については、ラジオ情報では震源地が淡路島ということから、神戸市に投入するか、淡路島に投入するか判断に迷っていたが、午後になって神戸市の方が被害が大きいことがわかり、チヌークにより神戸市に投入することに決心した。チヌークの優先順位は第3特科連隊、第3高射特科大隊、第37普通科連隊、第3戦車大隊として運用したが、チヌーク2機が政府調査団に運用されたことから、第3高射特科大隊の運用時をもって日没となった。のため、第37普通科連隊については、車両部隊を夜間移動させ、主力をヘリ輸送したのは翌18日早朝となった。」(中部方面総監部『行動史』59頁)

 「第1ヘリコプター団(千葉県木更津市)は、17日0700情報所を開設、0720から0730の間、八尾駐屯地飛行場(大阪府八尾市)の被害状況及び隷下部隊の航空機の状況を確認した。じ後、災害派遣準備を整え、0920陸上幕僚監部に対し、『1時間以内の派遣可能』である旨を報告した。1115災害派遣命令を発令、1116CH-47×4機を派遣、1307八尾駐屯地に到着した。1155増援命令を発令、1302CH-47×4機を派遣し、1447八尾駐屯地に到着した。」(陸上幕僚監部『行動史』195頁、まるがっこ内は筆者において加筆)

 「当初3日目までの最も緊急性が要求された人命救助に任ずる部隊の輸送においては、17日第3特科連隊の150人を灘区王子公園へ、第3高射特科大隊の85人を淡路島へ、18日第37普通科連隊の353人を灘区王子公園へ、第3戦車大隊57人を西宮市へ空輸したが、これは、3日日までの総派遣人員の約14%であった。」(陸上幕僚監部『行動史』431頁)

 「17日の夕刻までは、第3師団主力による救援活動とこれに対する方面隊としての所要の部隊の増援、支援を実施した訳である。しかしながら、17日夕頃、被災規模が甚大で第3師団(+)のみでは対処困難と判断して、17日夕の作戦会議において、まず、第10・第13師団から各戦闘団を第3師団に増援することに決するとともに、18日未明の0300の作戦会議において、方面隊全力をもって救援活動を実施することとしたものである。これを17日の例えば昼頃に決心すべきではなかったのかとの疑問もあろうが、あの当時の我々の承知した『1200時点で死者200名』という状況を踏まえて、第3師団を増強することで対応が可能であろうと判断していたものである。また、18日朝の決心から20日0600の救援活動開始まで実に2日の時間の浪費をしているのではないかとの批判についても、この時間は、方面隊主力の大部隊を投入するに当たっての可能性の追及(集結地、兵姑支援、付与する任務等)並びに各隷下部隊の移動、集結、偵察、命令の準備/下達、展開等の準備行動のためには必要な時間であった。」(中部方面総監部『行動史』314頁)

 「17日夕刻になって、テレビに神戸の燃え盛る映像が飛び込んできた。この時に至り、『第3師団増強による災害派遣で可能であろうか。』『方面隊主力による災害派遣を実施すべきではないのだろうか。』との思いが総監部幹部の頭の中で行き交っていた。18日0300に、方面総監は、上記の情報を総合して『第10師団及び第13師団の近畿地区への推進準備に関する中部方面隊行動命令』を発令した。」(中部方面総監部『行動史』204頁)

 「19日のうちに、第10師団主力は大久保・大津各駐屯地に、第13師団主力は日本原駐屯地に進出、20日0600自衛隊創設以来初めて3個師団による災害派遣活動を開始した。この際、第3師団が、人命救助活動のため神戸市須磨区から伊丹市に至る広範囲に展開していたため、第10・第13各師団主力を本地域に投入すると、第3師団の部隊と混交するような状況が予想された。このため第10・第13各師団担当区域にいる第3師団の部隊は、そのまま第10師団又は第13師団に配属して、任務を継続できるように配慮したが、混乱した状況のうえ上下級部隊及び関係部隊等との連携が十分でなく、第10師団又は第13師団に配属される予定の部隊が、第3師団の地域に戻ってしまうというような錯誤や混乱も生起した。しかしながら、3個師団の投入により人命救助及び行方不明者の捜索は更に進展し、1月28日の一斉の捜索をもって人命救助活動を終了した。」(陸上幕僚監部『行動史』205頁)

(本稿関連記事に「全国各地の自衛隊部隊を被災地にいかに迅速投入するか」、「阪神大震災、発生から30年目となる今年にある1記者が言ったこと」)

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