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全国各地の自衛隊部隊を被災地にいかに迅速投入するか

 陸上自衛隊第31普通科連隊指揮所。作戦台の前に東京都中心部の地図が2枚並べられ、それぞれに被害状況、部隊の展開状況が記されている。

 杉並区18人、中野区17人、新宿区25人、渋谷区20人、世田谷区23人、目黒区23人、大田区31人、品川区23人。

 演習の上での設定ではあるが、阪神大震災級の地震が東京・渋谷の直下で発生してから7時間がたとうとする午後4時10分、これが、この時点の、8つの区での自衛隊の全勢力だ。

連隊指揮所で

 あまりにもの少なさに「愕然とするでしょう」と連隊幹部は自嘲気味だ。これでも連隊(330人)を総動員し、埼玉県朝霞市や東京都練馬区にまたがる駐屯地から車やヘリコプターで直行させた。被災地全域で活動する陸自の隊員はこのとき2200人ほど。

 「おたくの部隊をここに連れてこれるのは何時ごろになる?」

 連隊長は、連隊指揮所に着いたばかりの富士教導団の連絡将校を前に、地図を指しながら矢継ぎ早に質問を浴びせる。

 富士教導団は静岡県の富士山すそ野に駐屯する約2千人の部隊。この日の午前11時50分、世田谷区、渋谷区などに増援するよう東部方面総監から既に命令を受けていた。

 連絡将校から「はやくても17時半です」と回答を受けると、連隊長は「それは指揮官か? 部隊が来るのはいつ?」と詰める。

 連絡将校の「それは深夜に……」という回答に連隊長は満足しない。

 「何時進出予定か、それを知りたい。区役所に進出してこられる時間は?」

 そう連隊長は畳みかける。

 これに、富士教導団の連絡将校は答えられない。

 「向こうを12時半に出発しておりますので……」

 現場では少ない人員で人命救助が続けられている。目黒区に入った重迫撃砲中隊からは「5人救出」の報が、第1中隊からは「中野区で1人、杉並区で1人を救助した」という報告が入ってきた。状況からすると、なお多くの人が救助を待っているのは確実だ。

「陸災関東甲-1号」発令

 午後4時、防衛庁長官から「陸災関東甲-1号」が発令される。ここで、東部方面隊の枠組みを超えた広域での部隊運用の枠組みが発動される。

東京・渋谷直下で大地震が起きてから33時間後までの自衛隊部隊投入状況=2001年7月17-18日の防災指揮所演習での想定であり、実際にはこれより遅れる可能性が高いとの説明だった。手書きのメモは筆者によるもの

 南東北の第6師団(4480人)、東海・北陸の第10師団(3199人)などの東京投入が命じられた。各師団はそれぞれ車両で出発しようとしているはずだが、人命救助は時間との競争だ。

 深夜、富士教導団が都内に到着した。大田区など5つの区を富士教導団に引き継いで、31連隊は中野区や新宿区に全力を注ぐことにした。このときまでに被災地全域で活動している陸自の隊員は5540人ほど。

東京・渋谷直下で大地震が起きてから31時間弱後の自衛隊部隊投入状況。この区割りは、演習で想定された状況に応じての部隊の運用の結果であり、実際そうなるように固定されているものではない=2001年7月18日の防災指揮所演習での想定。手書きのメモは筆者によるもの

 2001年7月17~18日に2日連続で、陸上自衛隊の東部方面隊は、東京都渋谷区付近の深さ20キロで17日午前9時半にマグニチュード7.2の地震が起きたとの想定により、埼玉県内の朝霞駐屯地と東京都内の練馬駐屯地で、防災指揮所演習(CPX:Commandpost exercise、図上訓練)を行った。筆者(奥山)は、朝日新聞の大阪社会部「防災力」取材班の記者としてこれを取材した。

 このときの訓練の結果によれば、図上、地震発生から24時間弱が過ぎた翌18日午前9時までに、第10師団や第6師団が加わって、被災地で活動する陸自の隊員は1万2710人に増え、その日の午後には近畿の第3師団(2830人)が加わり、総勢1万5440人となった。

 そのような震災がもし現実となれば、首都圏に駐屯する部隊だけではとうてい被害に対応しきれない。一刻も早い増援が必要だ。図上訓練とはいえ、富士教導団の連絡将校への第31連隊長の問いかけは、迅速な増援の必要性を訴える叫びであるように、筆者の耳には聞こえた。

阪神大震災で

 1995年1月17日に発生した阪神大震災で、自衛隊の広域増援は人命救助のかぎだった。その増援に何日もの時間をかけたことが、「自衛隊が遅い」と批判される理由の1つになった。四国の第2混成団は震災発生当日の午前中のうちに中部方面総監部の命令を受けて淡路島に向かったが、兵庫県伊丹市に司令部を置く第3師団が傘下の部隊を被災地にほぼ集中し終えたのは震災発生の翌日。第3師団の隣の師団である名古屋の第10師団、広島の第13師団が被災地に入ったのはまる3日後の20日未明だった。

 全国の自衛隊のその他の地上部隊はこの間、給水部隊など一部を除いて、ほぼ動かなかった。防衛庁長官から命令が下されなかったからだ。長官を補佐する陸上幕僚監部は「地上部隊については中部方面隊だけで足りる」と判断。航空自衛隊の輸送機は震災当日、東京・警視庁のレスキュー隊員を兵庫県に運んだが、陸自の隊員を運ぶことはなかった。

 72時間以内に救出されるかどうかが、がれきの下に埋まった人々の生死を分ける。陸自は震災発生後の3日間に142人を救出した。増援部隊が入った4日目には12人を、5日目には3人を助け出したが、生存救出率は大幅に低下した。

 「これほど多くの人たちが生き埋めの状態で救出を待っていたという災害はこれまでなかった」
 「3日以内に大きな隊力を投入し、当初3日間は夜を徹してでも捜索活動を行うことが必要である」

陸上幕僚監部『阪神・淡路大震災災害派遣行動史』429-430頁

 陸上幕僚監部は、1997年にとりまとめた報告書『阪神・淡路大震災災害派遣行動史』で、このように教訓を抽出した。

大臣命令での自衛隊派遣「日本じゅう」で

 南関東や東海での大震災については、阪神大震災以前から全国規模の増援計画が作成されていた。

「南関東派遣計画における陸自の部隊集中」と題する防衛庁の2001年当時の資料には、東京直下大地震発生5日目までの全国の部隊の増援の計画が示されている

 一方、その他の地域では、災害派遣は、その地区を担当する連隊長や師団長が知事の要請を受けて命令を下し、実施するのが通例であり、原則だった。阪神大震災でも、発生当日は兵庫県に駐屯する連隊や第3師団に災害派遣は任されてしまった。

 「日本じゅうが大震災になる可能性があるわけでございますから、南関東大震災計画や東海大震災計画等と同じようなものを全国にまずつくりまして、そして、発災と同時に、要請に基づいて防衛庁長官が命令を出しまして(自衛隊が)派遣される、こういうことが大事ではないか、こう思うわけでございます」

 1995年6月、衆院安全保障委員会で、玉沢徳一郎・防衛庁長官(当時)はこう答弁した。

 筆者(奥山)の私見によれば、その後、自衛隊の災害派遣に関する各種計画は確かに充実の度を増した。東日本大震災への対応ではこれが効果を上げた。これは間違いない。しかし、それでも全く足りない。そして、自衛隊法83条の、「都道府県知事の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる」との定めがそもそも、派遣にあまりに消極的だ。

 玉沢防衛庁長官の言うとおり、日本全国どこでも大震災に見舞われる可能性がある。日本海溝や南海トラフの震源域に面する地域や首都圏はもちろん、それら地域だけでなく、人が住んでいるところならば「日本じゅう」のどこでも、直下型の大地震で大きな人的被害を受けるリスクがある。ならば、それに対処できるように日頃から備えておくのは、国家の責任だ。その国家の手足となってそのとき迅速に実働できるのは、全国各地にちらばって駐屯する自衛隊の自衛官たちだ。

 防衛大臣もしくは総理大臣の命令に基づいて自衛隊の全国各地の部隊を迅速に被災地に集中できる枠組みが、人口密集の大都市であろうが、半島の過疎地であろうが、「日本じゅう」「全国」について、すでに設定されたのか未だに設定されていないのか、つまり、阪神大震災直後の防衛庁長官の言葉がすでに実現しているのか未だに実現していないのか、いま、それが問われている。

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