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科学が行きつく場所は、古代の叡智と同じ

古代イスラエルの教え【カバラ】でも、古代インドの教え【シャド・ダルシャナ】でも、その究極の教えは「絶対的な神の力を識るため」という目的と、それらの神が創った絶対的な自然の力を「識るための感覚を養うこと」という点では全く同じだ。

しかしそれらは形而上の見えない存在を識るための感覚であり、獲得した本人でしか理解できないものだ。

感性を磨き、この絶対的な自然の力を識る感覚で世界を観ることで、人は絶対的な自然の力を創った神に対して畏れを感じ、服従する帰依者となり、目の前の人に対しても謙虚さと寛容さを獲得する。
これは非自己を自己と成す同義であり愛の形だ。

そして、正しい対話法により、心の融合が達成したとき、他者と同等な価値観で世界を観る。

これらの教えは、哲学的というよりも、むしろ科学的な印象を感じる叡智だ。

その理由は、あらゆる者が再現できる方法が記されており、決まり事を守りさえすればだれでも再現できるからだ。

創造主に対する絶対的な信仰がそこにはあります。

「神との契約」の前に、私たちには「人との契約」があります。

それは人が人間らしく生きるための土台を、人間が育てる教育が基本となる社会でなければならない。

現代の科学における定義は同じく再現性を重視しているが、果たして本当に再現できることを行なっているのだろうか?

同じデータを元に現象そのものを再現したところで、それを本当に再現したといえるだろうか?

私たちは無機質な機械ではなく、感覚を持った人間だ。

再現された現象を観て、それを本当に納得しているだろうか?

むしろ、学者・権力者・の地位・名声などの権威を、自身のエゴプログラムに従い納得させられているという、盲信・盲従させる宗教のように感じる。

古代から残されている叡智は権威を振りかざしているようで、実は謙虚であり寛容なものだ。

科学の本当の成果は、自然の摂理に対する服従を発見したときではないだろうか?

それは、古代の叡智と全く同じだ。


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