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「スカラムッツァの足跡をたどって」の著者カルヴェさんちでピアノ合宿!

こんにちは。音楽で人と世界を繋ぐピアニスト、岡田真季です。

2021年7月からスカラムッツァの教えを体系的に書いた本(原文フランス語)「スカラムッツァの足跡をたどって」を日本語訳し、メールマガジンで配信しています。スカラムッツァの詳細などは、マガジンにまとめてありますのでぜひ見てみてくださいね。


コロナ禍まっただ中で始めたこのプロジェクトから早くも2年ちょい。ずっとお会いしたいと思っていた著者のマリー=クリスティーヌ・カルヴェさんについにお会いすることができました!!

今日は、思い出メモを兼ねて、2泊3日のカルヴェさん宅での発見の数々を書いていこうと思います。

会った瞬間から心を開くことができる人

カルヴェさんはパリから電車で1時間半の地方にお住まいで、駅まで車で迎えに来てくださいました。以前はパリにもアトリエをお持ちだったのが、コロナ禍でロックダウンになる直前、潔く引き払ってこられたそうです。

2021年の6月ごろに、突撃メールをして「読みました!素晴らしい内容で、ぜひ日本の方にも広く読んでいただきたいので、メルマガで配信してもいいですか!?」と尋ねてから、ずっと細々とメールでのやり取りをしていたのだけど、直に会うのは初めて。

ムッツァの配信を読んでくださっている方なら想像できると思いますが、あの理論の組み立て、説明の順序、すべてがものすごく秩序立てられていて圧巻なのですが、ご本人もそういったキッチリカッチリの気難しい方だったらどうしよう、と実は思っていました😅

けれども実際に会ったカルヴェさんは穏やかで冷静、かつどこかしら堂々としておられて、私はすぐに車の中で心を開くことができました。

「あなたはどうして、この本を翻訳しようと思ったの?」

とズバリ核となるところを聞かれて、どうやってこの本にたどり着いたかだけでなく、自分の当時のシチュエーションや心境までも打ち明けていました。

何か自分を伸ばしてくれる、自信になるものを探していました。

「私もそうだったわ。だからあなたの気持ちがよく分かる。ピアノに本格的に取り組んで、プロになりたいと思ったのが本当に遅かったからね、19歳よ。だから、師たちがどうやってあの音を出しているのか、なぜそうなのか、ずっとずっと探して考えて実践しては考えてきたよ」

カルヴェさんはピアニストになると決心をした後、まずイタリアでミケランジェリの弟子からピアノを学び、そのあとスイスのローザンヌで教鞭を取っていたファウスト・ザードラの元で学び、アシスタントまで務められました。ザードラがスカラムッツァの弟子なので、カルヴェさんはミケランジェリとスカラムッツァの孫弟子と言えます。

メルマガでもたびたび話題にしている、アルゲリッチやゲルバーとザードラは同年代で、子供のころからスカラムッツァに師事していました。みっちり仕込まれているので、どんな作曲家であろうと、どんなテクニックであろうと、どんな様式・スタイルであろうと、実に自然と美しく弾き分けていたそうです。

逆に、あまりにも音と身振りが無意識の中に刻みこまれているので、いざ生徒にレッスンする時には説明ができなかったそうなのです。というか、あまりにアルゼンチン人すぎて、急に夜中の2時に叩き起こされて弾きあい会が始まったり、何時間もレッスンの生徒を待たせてずっとおしゃべりしている、などなど、大変な「特殊な」ピアニストだったそうで…


ザードラクラスの写真。後ろの生徒たちの前列左端で、手を顔に当てた「考える人」がカルヴェさん。

そんな中、カルヴェさんを導いてくれたのは、その抜群の耳の良さ、音の理想でした。

あの音を出す時はこうしてるんだな、
モーツァルトの時はこういう手つきなんだな、
同じ動きをしているようなのに出てくる音が違うのは、この部分の差だな、、、

などなど、とにかく耳で聴こえる音を頼りに、探しまくったそうです。


音楽を愛する人のための夢の場所

中世の風貌の家のあいだを通り抜けてたどり着いたお宅は、メインの家、そして別の棟(農業小屋を改築したもの)が大きなもみの木のある庭を囲むように建てられていて、その奥にはずっと畑が広がっている、なんとも広々とした自然に囲まれた場所でした。



写真の右手前は、高い屋根をうまく利用したオーディトリウム。この場所で1995年から毎夏ずっとピアノ合宿や音楽祭を開催されていたそうです。

家ではカルヴェさんのお母様(90歳を超えておられるとは思えない美しく明晰な方!)と、カルヴェさんの長年のお弟子さんでアシスタントの方が迎えてくださり、「わぁー!また合宿するみたいで嬉しいわ!!」と。訪問することが決まってから、本当に色々と準備して、この日のために集合して心待ちにしてくださっていたようです🥰


何時間でもピアノの前にいられる!

さて、少し休憩したのち、さっそく本を取り出してピアノに向かいました。今回の訪問の目的は、本の内容をちゃんと理解しているか、誤解がないか、実際に身振りや音を共有することで確認すること!全4巻あるし、特にこれからメルマガで紹介していく4巻は「表現」するための内容なので、より一層、概念的なことや、音楽がどうやってできあがっているかを深く知らなければ、本当の意味を訳すことができない巻なのです。

とはいえ、まず基本のき、一番初めの章「落下」から順番に見ていきました。

読者の皆さんは「落下」実践されましたか?いかがでしたか?すぐにできましたか?「バシャーんっていう音しか鳴らないし、こんなことに時間費やせないわぁ」って思われた方もいらっしゃるかもしれません。

私にとっては、子供のころについていた基礎の先生にこればかりやらされて、もう何が良くて悪いのか分からない!!というところから、徐々に歳を経て体感できていたので、「これは私は大丈夫だろう」と思ってカルヴェさんの前で「落下」させました。

「悪くないよ、じゃぁ和音で掴んでもう一度やってみて」

ジャーン… と落下させたら、

「あっ、いま若干自分で落とそうとしたね」

と言われるのです。え、そんなんしてないよ!?でも、カルヴェさんの「耳」が、ただ落とす音と「少しだけ自分で落とそうとした音」を聴き分けて、ぜんぶ指摘されてしまいました!!

「よく聴いてごらん、これが本当に落下だけの音だよ」

何度もやっているうちに、だんだん違いが「聴こえて」きました。本当だ、聴こえたら自分のちょっとした力みにも気づき始めました。



そんなふうに、ある時は筋肉を手で触りながら収縮・脱力を確かめ、ある時は目をつぶって響きにだけ集中し、ある時はカルヴェさんと指を引っ掛けあって使う動きを体感として分け与えてもらい、次々とページをめくってひたすら弾き、聴き、触り、見て、進めていきました。

4巻で詳しく解説されますが、人はみんなそれぞれ聴覚優位、視覚優位、身体優位といった違いがあるそうです。カルヴェさんと話をしていると、彼女は絶対的に聴覚優位だと気付かされます。その点では私は視覚優位なのかなぁと感じました。なぜなら鍵盤の手を見ていると、耳は聞いているだけで、カルヴェさんと同じレベルで「聴いて」はいないのを痛感したから。。。

どの感覚が優位だと音楽家に向いているとかではなくて、ぜんぶ混ぜて、バランスを取って使わないといけないんです。自分の感覚の長所短所に気付けたことも、大きな発見でした。


こんなふうに、3つの感覚をフルに使っているのに、頭はずっと冴えていて、1巻をぜんぶ見終えた時「休憩入れようか?」と言われても「いえ、続けてください🤩」というほど、発見の連続で疲れ知らずになっていました!


西洋は本当に失われていくのか

こんな密度で翌日も朝ご飯の後から昼ごはんまで、休憩を挟んでまた夕飯まで、本を見ながら、そしてショパン、ドビュッシー、バッハ、モーツァルト、フォーレ、シューベルトなどいろんな作曲家の作品に当てはめながら、実際に応用して弾いていきました。

ピアノの前にいない時は、たいてい暖炉か食卓を囲んで音楽談義でした。音楽って、本当に人類の歴史と知恵、可能性の結晶だなと思うのですが、まさに、音楽を中心に身体のこと、歴史のこと、政治のこと、思想のこと、自然のことに話題が飛びまくります、が、ぜんぶ繋がってるんです😆

その中で何度も何度もカルヴェさんが言っていたのが「西洋はもう失われていく」といこと。人は学ばなくなっている、と。学んだら何か良いことが待っていると思えないこの社会で、学ぶ意義がどんどん薄れてしまっている。加えてフランスの「自由」「個人主義」は、どんどん本来の意味を失い「伝統を学び受け継ぎ発展させる」ことから遠ざかっている、と。

日本の「みんなで一緒に」が個性を育たなくしている、とか、日本語の「自由」という言葉は明治時代に発明された輸入思想だとか、とにかく年長者への敬意が大事だとか、私がヨーロッパで過ごしながら自分の足枷のように感じていたこれらの点は、カルヴェさんたちから見ると「ちゃんと学び伝えられる美点」として映っているのでした。

日本(もしくはアジア全般)の人たちが自然と持っている学びの姿勢に希望を持っているように見えました。「この本の中で明らかにして伝えようとしたピアノ芸術を、いま体現しているアーティストはもうほぼいない。彼らが死んでしまったらもう残らないと思う」と。

だからこそ、日本に(東洋に)このスカラムッツァの教えが伝えられていくことが嬉しいと。


出発前にパシャリ


音楽そのものが絶対の存在

フランス語で会話をしていて、日本語にしにくいもの、直訳すると違和感を感じる単語が出てくることってよくあります。先ほど挙げた「自由」もそう。もうひとつ例として挙げたい言葉、それは「autorité」権力、権威、威厳、権限という意味です。

人がなにか行動する時、「こうしなければならない、ルールから外れてはいけない」と、のしかかってくるのがこの「autorité」。国で言えば国王だったり憲法だったりが決めているし、宗教なら神、家庭なら親などがそれにあたります。

でも現代の世界で、どんどんそのルール、権力者、信仰の力って疑いを持たれ始めているというか。少なくとも例えばバッハの時代に比べたら、随分と弱まってるのではないかな。

「自由」「個人主義」は、その既存のautorité からの脱出なんですよね。

これからの時代、例えば「行動」を「音楽をする」ことに置き換えた場合、私たち音楽家に必要な「autorité」ってなんだろう、と思うのです。自分自身が自らを制してautorité を持ち合わせることも大事。そして「音楽そのもの」がautorité になることなのかなと思うのだけど。

でも音楽談義がいろんな話題に飛び交うのと同じように、「音楽そのもの」もまた世界のすべてなんだよなぁ。。。

そんな思索のループに入ったところで、この思い出メモを終わりますね😇


最後まで読んでくださったかた、ありがとうございました。
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音楽で人と世界をつなぐピアニスト  岡田真季

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