優しくなりたい、そして許されたいのだ

面と向かって誰かに責められているわけでもないけれど、
私はずっと「許してほしい」と念じている。


いい人になりたくて、自分の嫌なところを直したい。
あとになって気づく攻撃性や自己主張がつよいところ、わがままなところ、
優しくあろうとして結局他人に冷たいところ、鈍感なところ、みんな嫌なんだ。
自分が気づかずにしでかしていることを全部知りたい。
苦笑いを浮かべながら、こちらを見ている人の顔をもう見たくない。

ふとした時に、小学校のクラスメイト S君のことを思い出す。
ちょっと大人びていて人気者だった彼は、私の気づいていない、そしてクラスのみんなが思っているであろう私の嫌なところをよく知っていた。

そして「これだから小俣さんは・・・」と私に向かっていつも苦笑いを浮かべる。「なにが?」と聞いても、それ以上は言わないのが大人だよという風で答えてはくれなかった。
笑ってないで、はっきり言ってくれたらありがたいのに。

ある日のホームルーム。
お題は「その人の良いところ、悪いところを言いなさい」だった。
順番に立たされて、その人のことをみんなで話す。
大概みんな褒められる。
私も普段は照れて言えない友達の良いところを思いっきりあげた。この人のここが好き!って大手を振って言えるのって気持ちがいい。

ところが、私の時だけ、様子が違った。
褒めてくれる人より、短所をあげるときに立ち上がった人の人数が多かった。

先に発言した人と同じ主張を持っている人は「同意見でーす!」と声をあげて座るシステム。
私の時は、何度もこの言葉の合唱が聞こえたが、立っている人の数は一向に減らなかった。

ああ、私はこんなに嫌がられていたのか、人が嫌がることをしてしまっていたのか、と初めて思い知った。S君が言っていたのはこのことだったのかと。
担任の先生は私を見て黙ってニヤニヤっと笑っていた。
あの人も私のことが嫌いだったのだろうか。

一番ショックだったことは、指摘されたことの多くが良かれと思ってしたことの中にあったこと。
ものをはっきりいうとか、場を仕切りがちとか、怪我したハムスターの面倒をみすぎている(独り占めしてる)とか。

役に立ちたいって思ってやっていたつもりだったけれど、その場にいることの意味が欲しくて、やっていたとも言えるかもしれない。それって、場の主導権を常に握りたがっているようだったり、やってあげようという恩着せがましさやおこがましさがあって、それが人にとっては不快だったのかもしれない、と振り返ってみて考える。(ハムスターの件はいまだに全然納得できないけれど。)

やろうとしていることと、できることのレベル感や私への信頼性とポジションがちぐはぐだったんだろうなぁとも思う。そのことが人の神経を逆撫でして苛立たせたのかもしれない。お前に頼んでねーよ!余計なお世話だよ!と。
何をしたかではなく、誰がしたかの問題。

昔から父にも「荘子は自分が正しいと思うことをはっきりいうから」と指摘される。どうやら良くないことらしい。
自分が思ってもない主張、信じてないことを口にする方がよっぽど害な気がするんだけどな。みんなは違うのだろうか?
というか、世の中に絶対的な「正しいこと」なんてあるんだろうか。私はそんなの無いと思う。だから自分の「意見」を伝えるのだ。

子どもの頃どうだったかはさておき、自分の主張を押し付けるつもりで言っているつもりはないんだけどな。相手を否定する気もないんだけどな。
ものの言い方には気をつけようと思いつつ、つい強く言ってしまって後悔することがいまだによくある。

「思い描く良い人間になろうとして拗らせている人って感じ」と夫にも言われた。
ただ優しくなりたいだけなのに。

人の評価を気にせずにただただひたすら、良いと判断したことをひたむきにやればいいんだろうな。自分のために。
それができない私がする「良いこと」は、きっとどこか嘘くさい。

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小俣 荘子

わたしをかたちづくるもの

「私の形」をテーマに創作したものがたり #エッセイ #小説
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