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ケケケの日記

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日記(のようなもの)
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カンフー事変

ときどき、ほんと何がスイッチになったかもわからないのだけど、幼い頃の記憶がフラッシュバックすることがある。そして思い出すのは、たいていテレビの前にいる自分だ。 小学生に上がる前は、一人、もしくは弟と家で過ごすことが多かった。母もパートで働きに出ていたこともあり、留守番担当であった。そんなとき、テレビの前に身を置いて、毎週のように足を運び借りてきた作品をビデオデッキに押し込んでいた。 みつばちマーヤ、ムーミンのようなアニメはもちろん、ジューレンジャー、ウルトラマン、ゴジラの

ビジネスモデル崇拝で「仕事する」とか「お金を稼ぐ」とか

イヤイヤながらでも仕事をしていると「ビジネスモデル」という言葉に出くわす。 のことを指すらしいが、社会人になって15年が経った今でもあまりピンと来ない。そもそも「モデル」という言葉に重きを置ことする姿勢があまり好きになれない。 物事は、真似から入って、学びに変え、身につけ自分のものにしていく。そのためには手本・見本となる「モデル」は大事なのだろうけど、「そのモデルをなぞらってさえいれば、もうすべて大丈夫です」といった論調をこの頃は感じる。ネット広告で甘いささやきのように流

「わたし」を乗りこなすまでの道のりは。

ああ暇だよなーとなんとなしに本を読んだり、映画を観たりして、たまたま刺激を受け、それが企画になったり文章になったりする。 思い返してみると、それが自分が妙に力を発揮してきたの流れである。ボールを持たず、何一つ抱えていない身軽なときほど、脳みそに余白がありまくるせいか、パフォーマンスが上がる。遊具のある公園よりも、遊具が一つもない、だだっ広い公園のほうが遊びがいを感じてしまう。 逆に抱えてしまうと、一気に弱くなる。 たとえ1分足らずで終わることでも「やらなくちゃ」と認識し

4月1日は得意になれない

新年度のはじまりがなぜ嘘の日なのかを未だに受け入れられずに36回目の4月1日を迎える。 エイプリルフールは、あまり得意ではない。得意になろうとしているわけでもないし、得手不得手とかそういう対象でもないのだろうけど、タイムラインに流れてくることばが本当なのか嘘なのかの判別しなくちゃいけいないこと、嘘の日だと意識を忘れて投稿したことが邪険に流されてしまうんじゃないかという恐れなど、いろいろ難儀な日。 そもそも。この「嘘をついてもいいよ」という日にかぎって、この人がつく嘘は聞い

ちちんぷいぷい童貞

ちちんぷいぷい童貞を奪われた本を思い出した。 今日は、運営拠点の現場に立つ最後の日だった。そんな感慨深くも、春休みの子どもたちの溢れ、じっとしにくい日に荷物が届いた。図書室に買い足した本だった。段ボールを開封し、計20冊ほどを並べる。その中に『じごくのそうべえ』があった。 実家にあって4~5歳のときに読んだ、えらく記憶に残ってる絵本だった。落語演目『地獄八景亡者戯』を題材に描かれた作品で、死んで地獄に送られたそうべえたちがあばれて、鬼たちにあきれられ、地獄から追い出される

いつの間にかできていた、と脳に覚えさせたい。

ティファールでお湯を沸かす、鍋で乾麺をほぐす、レンジであたためる、珈琲をドリップで落とす、など1分足らずの隙間時間を台所で過ごすとき、バースプーンを回すことにしている。 バースプーンとは、カクテルづくりに使うもので、マドラーのように飲みものを混ぜるものと思ってもらえればいい。ねじりのある長いスプーンにも見える。ちょっと複雑なのは、ただがちゃがちゃ混ぜればいい代物でもない。 バースプーンの背の部分をグラスに押し当てて回すと、きれいにスムーズにくるくるくるくる螺旋を描く。ポイ

ムダに成長しなくてもいいから、衰えず続けてくための邪魔せんで。

25歳くらいのときに「成長しなくてもいいや」と思った。といっても、これは諦めの話とかではなく。 「成長しないといけない圧」への違和感ってあるよねぇ、と知人とぐだぐだ雑談していたときに、10年ほどの前の出来事を思い出した。 当時、仕事旅行社のプランナーとしてほんのちょこっとお手伝いさせてもらっていたが、京都で唐紙を扱う「KIRA KARACHO」のトトさんの話を聞く機会があった。 襖文化が続くために産業がどうあるか、の話が印象だった。そこから、成長よりも継続(生きながらえ

告知の告知

3月は、その背中を追いかけることしかできない。 この数年はずっとそんなかんじ。12月は師走(師匠といえども走り回る月)というけど、ぼくの中では年度切り替わる3月のほうがより師走である。ホントはちょっと先のほうまで早めに行き、後ろをふり返るくらいの余裕がほしいのだけども。 ちなみに、3月は弥生(草木が生い茂る月)だそうだ。せかせかして水を遣れてるのかが不安にもなるけど、そもそも種を蒔けてすらいないんじゃないかとハッとすることも。 「種を蒔く」ってのは、かんたんに言えば、「

しょうもないけど、続けるには、ちょうどいい日記。

昨晩、ふとYouTubeで拾ってしまった『First Love 初恋』の切り抜き動画。去年すでに観終わっていた作品で、このシーンよかったなぁ(濱田岳の役って思いが成就しない役が多くていいよなぁ)と喚起され、その足でそのままNetflixへ。第8話終盤、懐かしいCDプレーヤーで宇多田ヒカル『First Love』を聴くシーンを見返す。火がついて(というか前後のストーリーがちょこちょこ抜けてて)、結局8話を最初から観て、そのまま最終話へと飛んでいく。まんまとYouTubeプロモー

集中力とゆたかさ / 動画とゲーム、幼少期からマルチタスクな子どもたち

「ながら」に奪われてしまっているものを考えると急にこわくなる。特にパソコンやスマホ、テレビなどの画面を通じた「観ながら」のせいで、注意散漫な生活を送る自分に気づいたときのホラー。タイパがいいように見えて、ながらで同時で行っている二つの濃度はかくじつに薄まっている。 「人間の脳はデジタル社会に適応していない」 という論点で、現代病についてとくとくと書かれた『スマホ脳』では、現代で「集中力」ほど大事なものはないと指摘する。この内容の多くは、自分の身を持って、大きく同意する。脳

地方を「日本語の通じる外国」と考えれば。

"同じ"なのに伝わらないともどかしい。 一つでも共通点を見つけると、不思議と「距離を近づけるのではないか」と思ってしまうことがある。ただそう思ってしまうだけで、じっさいには勘違いだったりもする。勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになるとはこのことだ。 "同じ”にもいろいろあるのだけど、ぼくら日本人は”日本語”に少し頼りすぎてるのかもしれない(海外だと自分の母国語をしゃべらない人のほうがマジョリティだったりもするから)。 海外で現地の言語をうまく使いこなせなくて、自分

Chrome拡張機能でNotion活用を後押しされ、「ブラウザタブやたら開いてるやつ」から進化した

いつの間にか、昔では全く想像できなかった量の情報処理をするようになっていた。変化は、一人一台、当たり前のようにパソコンやスマホを持つようになったからか。きっと誰もがそうなのだろう。 おかげで新たに舞い込んでくるコンテンツに翻弄されながら生活をするはめに。少なくともぼくは「情報の奴隷になっちゃってるよな」と哀しい事実に何度も出くわしている。 毎日SNSなどを通じて流れ込んでくる記事URLをタッチ/クリックしては、報道やら読み物やらの情報に触れる。当然ながら、その全てを一瞬で

散髪SOS

髪を切りたいと思っても、髪を切ってもらう場所がない。正しくは、お店なんてのはいくらでもあるけど、この店、もっといえば、この人ならおれの髪を預けても安心だ、と思えるところがない。 その美容師が切るのがうまい?イエスorノー?という話ももちろんあるけど、それ以上に会話の心地よさが自分にとっては重要だったりする。間の取り方、そして、話しかけすぎず放っておいてくれる配慮、こちらの言葉に対するリアクション、その小さな蓄積が心地よさをつくる。 相性でしかない、といってしまえば、そうな

憧れを断つ

憧れる人がいるってのはいいこと。だけど、憧れすぎちゃいけんよな。その人を追いすぎると、その人に影響されすぎると、なんかよくはないかも。そう考えて、その人たちの情報を遮断する術を探りはじめている。 その人を知るための最低限のバックボーンまでの情報はいい。ただ最近の発言だとか、その人たちの作品に触れすぎると、自然とまねようとしちゃうというか、いつの間にか脳みそをハックされてるようなこわさがある。自分らしい表現のつもりでも、他人の受け入りでしかなく、自分を失ってる状態(それを自覚