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台所と、働くこと|炊事をめぐる考察③

「欲張りしすぎちゃいけないよ」

大迫力大山産ブロッコリーをまな板の上でえいやっと切り分けながら、そんなことを思ったのだった。不思議なもんで、台所に立っていると、「閃き以上悟り未満」の言葉が頭に浮ぶことがある。

これまで、のまど間では、「料理とものづくり」とか「動的思考としての料理」とかを書いてみたのだけど、今回思いついたのは「台所との距離」について。

ここでいう「距離」というのは、仕事をするときに、「職場と台所がどれくらい離れているか」ということ。

都会に住んでいると、たいてい、職場と住居が離れている。電車通勤で、「毎日1時間かけて、千葉から東京に通ってます」なんて話は”ざら”だ。

そうなってくると、昼食時間に「自炊して食べる」なんてことは、福利厚生でキッチンスペースが整っていたり、食系会社でないかぎりは、あまりないかもしれない。

たとえ設備が整っていたとしても、手間をかけ一からつくるなんて短い休憩時間では厳しいだろうし、ほとんどの人はそれを「非効率的」と思うんじゃないかなあ。

そもそもの話なんだけど、都会で当然とされているのは、「炊事をしなくてもいい」むしろ「炊事をさせない」働き方であって、それを推奨しているようにも感じる。

「田舎は生産的で、都会は消費的」とよく耳にするのだけど、その構造は働き方にもあったのだなあ、と。一次産業が多い田舎と、三次産業が多い都会では、その関係性がより際立っちゃう。

ぼくは人口1300人くらいの伊平屋島で育った。島では、お昼時になるとわざわざ家に戻って、ごはんをつくって、家族と卓を囲む人は少なからずいた。短期で移り住んでいた小豆島でも、同じような光景があったのを覚えている。

農家さんは、家と職場(農地)も近いし、同じ町であれば車でサッと移動もできるので、やはり台所は近いところにあった。

最近だと、働き方を考えるときの一つの視点として、「職住隣接」とか「職住一致」なんて言葉がよく出てくるけど、それって田舎では元々メジャーなことだし、昔の人はほとんど職住は近いのが普通だったはずだ(移動手段も限られているからこそ)。

京都・大山崎に移住して、コーヒー焙煎所「大山崎COFFEE ROASTERS」をはじめた中村夫妻がいる。今年、その焙煎所を移転することにしたそうだが、その理由についてブログではこう触れている。

僕らが移転するのは、”暮らしを小さくするため”です。
実は僕らは、お店をはじめると決めた当初から職住一体の暮らしを目指していました。つまり、焙煎所(お店)と自宅をひとつの場所にしたかったのです。その方が家賃など経済的な負担を小さくすることができるし、自宅と焙煎所を移動する必要が無いので少しの時間で焙煎をしたり、作業の合間に家事をしたりすることもできます。職と住が近いというのは、僕たちのような小さなお店、小さなお商売をする人にとっては、大きなゆとりを与えてくれることなのです。

「暮らしを小さくする」ことが「大きなゆとり」に繋がっていく。その感覚は、まさに島で暮らしていたときに感じていたことに近かった。

都会に身を置いていると、その感覚を忘れていたり、どうしても「暮らしを大きくしよう」と欲が出てしまうようで、自分の暮らしの心地よさよりも思惑にやられそうになることばかり。

中村夫妻の暮らし方に読み触れて、あらためて「自分にちょうどいい暮らしの大きさってなんだろうなぁ」「欲張りすぎちゃいけないよなぁ」といいあんばいの働き方を考え直す機会になったわけで。反省反省。

へんに話が広がっちゃったので、とりあえず、まとめをば。

台所との距離をみつめることは、今いる場所で働くことを見直せるし、(大小は問題でなく)自分に適度な暮らしのサイズを知ることにつながるよ。これ。

いろいろ考えていたら、いつの間にかしら、シチューができていました。

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