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8月21日|不足不足

「不足が足りない」

わりとよく自分で口にしていることみたいだ。まあ、そう感じる瞬間によく出くわすのだ。

「あれがない」「これがない」と困っている状況こそ、火事場の馬鹿力じゃないけど、頭をフル回転させる機会が生まれる。それが「自分の頭で考える」ことを育んでくれるんじゃないかなって。

ぼくは沖縄の伊平屋島という何もない島で育ったんだけど、大学から上京してすぐさま思ったことは、「何でもあるな~ここは!」ということ。とにかく便利で、便利はお金を払えば買えちゃうわけで、もしかしたらこれが噂に聞いてた資本主義のなんたらかと感じるほどで。

島だと台風でフェリーが止まったときに、スーパーの食品棚が閑散とする。島あるあるだ。そんなことは大都会ではほぼほぼなく、欲しいものが欲しいときに手に入るようなサービスに溢れ、日々その技術を高めんとしている。

あらゆる状況を、自分たちがコントロールできるような時代に入ってきているみたいだ。でも、そこはちょっと違和感があって、便利すぎると人間は弱くなるというか、調子に乗りすぎちゃうと思うのだ。

落雷で電車が止まったとき、苛立ちばかりを見せるサラリーマンがいる。なんか残念な気持ちになってしまう。だって、自然に人間が敵うわけがない。

受け入れるしかないものにプンスカしてしまうのは、やはり「コントロールできるもの」と思い込んでいるからであり、それによって1分1秒狂わせられることに対する免疫が弱すぎるからである。

それは、もしかしたらエアコンで室内温度を調整できるかのように、物事を支配しやすい文明が生まれ、その社会のなかで育ってきたからかもしれない。生育環境は子どもが選べるもんじゃないから、しょうがないと言えばしょうがないことだ。

とはいえ、それが、自分で考え、物事を寛容する、心のゆとりみたいなもんを奪い取っているんじゃないだろうか。ぼくは気づいた。何でもある東京にも”ない”ものがある。

「不足が足りない」

日常で困りごとがあるからこそ、心が揺らぐし、人は知恵を絞るのだろうし、一緒に解決しようとだれかと結束するし、自分たちでないものを埋めようと新たなものをつくろうと創造的にもなる。

だから、不足は大事なことだ。

子どもに問いが投げられたとき、いきなり答えを与えるよりも、ほどよくヒントを与えたほうが、自分で解こうとあれこれと頭を使って、ちょっとずつ逞しくなっていく。

そうやって、「不足を与える」こと、ちょっとカッコよく言えば、「不足のデザイン」ができると、人間も社会もほどよく育っていくのでは。利便性を重視して満たされることは、自身を思考停止へといざなう甘い罠だと適宜おびえておこうと思う。

上の世代の人とか、歴史的にもえらい人とかが「ハングリー精神」だなんて言葉をたまに使うけど、「それって、こういうことなんだろな」と納得しながらも、自分に足りない状況をどうつくってやろうかと目論む丑三つどきでした(いやもうすでにいろいろと間に合ってないんだけど泣)。

あ、ケータイがなかった頃のデートの待ち合わせって、連絡も取れないから、会えるか会えないかですごいドキドキしたっていうよね。それも、スマホをほとんどの人が持ってる今でいえば”不足”だったわけで、心の一つの表情を奪われてる状態なのかもしれないよな。

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