トンネルの落としもの

「童貞」と「非童貞」の間には何が潜んでいるのか。というか、自身の体験として振り返ったとき、そこに潜んでいたものとは...。

ここ最近よく考えてるのは、「童貞力」ということばとして成立してるのかどうかさえよくわからない、おそらく股間からぷわんぷわん沸き立つエネルギーについて。

ぼくが童貞と、その力を失ったのは21歳のときだったのだけど、そこを機に、得たものは果たしてあったか。「ついに、やった」というジーンとくるような実感があったかどうかでいえば、まったくなく、「ああ、やってしまった」という妙な危機感ほうが強く、精神的にも物理的にも実感があまりにも薄くて、「え、ほんとにやっちゃったの、おれ?」という夢幻説に持っていこうとすらしていたくらいだ。

「初めては大事だから」という感覚など持てるほどの余裕もなく、ただただ流れるままに、喪失してしまった。そのため、童貞がゆえの悶々とした大いなるリビドーは発揮する間もなかった。

意気込んで気張らんといけんような大事なことほど、ちょろっと、さらっと終わらしてしまったほうがいい(と学んだ)。想いを持ちすぎるから、できることもできなくなるし、チンタラチンタラ、めめしさを抱えながら、臆病にあらゆる物事と向き合っていくことになるのだろう。

はて......ここまできて、童貞が持つすばらしきサイコキネシスの核に向かって1mmも突き破れていないことに気づいてしまう。

ふと思い出したのが、新海誠の代表作でもある『秒速5センチメートル』だ。主人公の貴樹くんは童貞力の塊である!という理論なき確信があった。

そう、貴樹くんを思えば、気持ちを言葉としてドライブさせる瞬間を逃してしまったために、何年もずっと一人の子をずーるずると引きずって、一見、純愛のように見せてるけど、取り戻せるはずのない「たられば」にすがって、現実にうなだれ、未来をよくしていくためのアクセルを未だ踏み込めず、ギアも上げきれず、結局のところ、根っこの部分は変わらないままの男として、作品の終焉へと向かっていく。

一話の桜花抄で、明里からの手紙に対して「彼女からの文面は全て覚えた」という語りがあるが、その真摯な思いと沸き上がる熱量というのはすばらしいのだけど、冷静に考えてみれば、これは大ボケでもある。つまり、その鮮明すぎる記憶力が気持ちわるいのである(初めてこの作品を見る知人は、このセリフのとこで大爆笑が起きてしまったw)。

正直まだいっこうに「童貞力とは○○である」とは言語化できる自信はないけど、世界中の新鮮な童貞を濃縮還元したら、貴樹くんのような人物がぎゅぅっと絞り出されてくる、というのだけはわかった。

彼が持っているものを、たぶんぼくは失ってしまっていて、取り戻せないものを思えば思うほど、切なくて、あのときの気持ちを返してくれーーー!と海辺の夕日に向かって叫びたい気持ちは少なからずある。ただ”あのときの気持ち”がなんだったかを忘れてしまっているのがさらに切なくて。

19歳のときに観た秒速5センチメートルは同志としての貴樹くんにいちいち感動しながら何度も何度もDVD再生をしていたのに、30歳ともなるとどこか冷ややかに「こいつとはおれは違うぞ!」という距離を置きながら貴樹くんの童貞力溢れる言動を観察するんだけど、途中からそんな貴樹くんに憧れを抱くようになっていた。

セピア色のなにか、”持たざるもの”になってしまった自分は、”持てるもの”である貴樹くんに対して、ふかく嫉妬し、ただただ駄々を捏ねている三十路なのである。ああ、恥ずかしい...!

そこにはヒエラルキーがあるようだが、じつは、童貞と非童貞には上も下もない。何かを得て、何かを失い、たがいに無いものねだりをし合うだけの関係性があるだけ、今ではそう思える。

童貞↔非童貞をつなぐトンネルの中では「光の射すほうへ」と一点だけを見つめ必死こいてドタバタ走っている輩が多くて、いざ桃暗なトンネルから抜け出したときには、自分がそこで何を落っことしてしまったかすら気づいていない。

多分に漏れずぼくも同じ穴の貉だったわけで、落としものがよくわかってないから、童貞のトンネルを通過したのにもかかわらず、ときどき薄暗い穴の向こうを振り返り見つめながら、あの頃持っていたエネルギーが何だったのか、と後ろめたく前に歩んでいる。

結局何が言いたのかわからない文章になったんだけど、童貞のうちにたくさん日記つけておけばよかったなぁ、と正直後悔はしてるし、19歳のときのおれにこのnoteを捧げる、という気持ちで今はいっぱいです。

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