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だれの国語

「みんなが普通に使っている コトバの意味がわからない」
「外国のコトバをカタカナに わからないことを曖昧に」

ハンバートハンバートの『国語』という曲が大好きだ。歌詞にあるように「当たり前のように飛び交っているけどその言葉ってどんな意味なの?」という前提を疑がってみよう、というお誘いが、つい踊りたくなるようなたのしい奏でともにある一曲。

「まわりがその言葉を使っているから、特に意味を考えることもなく自分も使ってしまっている」。そうやって流されているかもしれない人間を、子どものような純粋無垢な好奇心で責め、皮肉が効いててなんだか心地よい。定期で聴くようにしてるんだけど、それは、(文字でも声でも)言葉を丁寧に選んで使いたい、そんな初心を忘れないようにするため。

田舎と都会を比べるときに思うことの一つとして、新しい言葉をつくったり、どっかから輸入したりして、その言葉をもとに新しい市場が生むのは、都会のほうが得意な気がする。実際のところ、そういうのが得意な(言葉として整えて発信して浸透させる技術を持っている)人が多いからだとは思う。

昔からある概念だとしても、言葉の発明により、”新しいもの”として騒ぎ立てられることがある。その言葉に踊らされている大人(と、そのまわりにいる子どもたち)がどれだけいるのかと考えるとゾッとする。本来、意味を伝えるための言葉だ。しかし、言葉が目立ってしまい、意味が忘れ去られることは避けれないものかもしれない。えーと、、言葉の一人歩きといいましょうか。

昨今、「新しい働き方」という言葉はよく聞くようになったのだけど、そのなかには「パラレルキャリア」という言葉がある。「副業」ではなく「複業」で、並行していくつもの生業を持っている人のこと。不思議なのは、このパラレルキャリア/複業という言葉に対して、「うんうん新しいよね」と頷き、「その新しい働き方ぼく/私もそれやりたい!」と躍起だっている人が増えたこと。

新しい、ってなんだろう。だれにとって、なににとって、新しい、のか。

もちろん、昔にはなかった言葉だから、”言葉として”新しいのは事実だ。ただその言葉が持つ”意味するもの/概念”というのは、昔からあった。たとえば、「百姓」なんかはそうだ。農家=百姓という印象が強いかもしれないが、元々は、大工や医者、僧侶、神主、商人、漁師など、複数の生業を抱えている人のことを指していた。

となると、”日本の歴史上においては”全く新しいわけではなく、”その言葉を知りえた人にとって”新しいだけ。昔あるものを掘り起して、目を向けさせるための言葉であるのはいい。だけど、それすら無視して、むしろ隠そうとして、さも最近生まれてたての言葉(と概念)のように扱っている大人、またそれに振り回されている大人って、言っちゃ悪いし言葉も悪いけど、ほんとアンポンタンだよなあと思ってしまう。表面的なところしか見ていないからだ。

自分自身も100%それができているとは思ってないし、浅いところしか見れていない自分がいたらすかさず自分に喝をいれることを誓いつつ、人のふり見てうんちゃらで、言葉とちゃんと向き合っていきたい。ちゃんと。

だれの(ための)国語なんかな。だれかをむやみやたらに煽る言葉ってほんとイヤなっちゃうわ。

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