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"間"を見つけるための実験スペースづくり - 自分の手でつくる面白さを「まちライブラリー」を眺めながら学ぶ

沖縄の実験スペース「水上家」には、日本最南端のまちライブラリーがある。

なぜ、水上家にまちライブラリーが入っているかというと、大阪時代にまちライブラリーに通っていたゴウくんと偶然にも知り合えたというご縁から。

一つの箱のなかで何かを一緒にやることにはそれなりに労力がいるわけで、ある程度の "重なるもの"がなければ、"一緒に"なんてことはできない。そもそも水上家は、「場代が〇〇円で〜」というように、ビジネスライクにやり取りをしたい場所でもなかったから余計に。

だとすれば、何が"重なるもの"だったかを振り返ってみる。こういう記事も読んでみると、ぼくと彼の場に対する基本的な意識、ポリシーが近かったことに気づく。

本を通じた場づくり「まちライブラリー」から学ぶ街の中での本の役割ーー礒井純充さん : http://machinokoto.net/u-school-vol-5/

「主催者が自ら手を上げて自分に連絡してくれば一緒にやる。それ以上のことはやらない」そして、「その主催者の想いと共感しなければやらない」

「まちライブラリー@水上家」は、ゴウくんが手を上げてくれたからやれてるわけで、それぞれ手法は違うんだけど、場に対する想いとか考えが似てるから、今こうやって東京-沖縄の遠距離でも(どうにか)一緒にやれているわけだ。

現在のまちライブラリー@水上家では、基本的に、「本とバル」のような読書会が月一での開催。それに加えて、ときたま開館日を設定するというやり方をとっている。

そこで通じた知り合った人がつながり、さらにはスピンオフの本のイベントを企画してくれたり、水上家とは別のところでやり取りがあったり、ゆるやか関係性がここで生まれている。

こうやって、実際に「まちライブラリー@水上家」の場が広がっていく様子をみると、彼がやりたいこと、「まちライブラリー」という取り組み/プロジェクトが体現したいことの実践を見れている気がして嬉しい。

ぼく自身が「本」での場づくりにあまり関心がなかったぶん、彼が進めてくれることで、自分が予期していなかった出会いと展開があるわけで、そういう、よい意味でのアクシデントが起きているこの状態はありがたくもある。

やってみたいと思ったら半歩でも良いから前進すること。0.3歩でも前に進んでください。かけ算したら少しずつ先に進みますから。そして、仲間が集まったら、互いの背中を押して助け合う。次は重要な点ですが、やれることからはじめるということ

というのは、水上家を「実験スペース」としている理由にもすごく重なっている。難しく考えすぎずに、まずやってみる、50%でもいいからかたちにしてみる、失敗はしたらしたらで失敗も楽しむ、という個人としての半歩をこの場を通して生んでもらいたいからでもある。

たがいに学び合うことはあれど、完全に他人を真似する必要はない。

利益うんぬんの関係のない貨幣経済から解放された状態で、"誰かが"ではなく"自分が"やってみたいかたちを試しながら、自分のつくったもの/場を通じて、ゆるやかな関係性が生んでいけるのが大切なのだと、ぼくは思う。

場所でいえば、職場と自宅の"間"に、取り組み方でいえば、仕事と趣味の"間"にあるような、そんなものが人を豊かにしていくのではないか。

(まさに、ゴウくんは会社員でありながら、"課外系男子"として、仕事後や休日を楽しむ彼の姿は、仕事と趣味の"間"をとっているようなスタイルだ)

だれかがつくったものに乗っかるだけの「消費」は、そこそこに、でいいよね。小さくてもいいから、自分の手で生める面白さを追える人がもっと増えるといいなあ。

そういう気持ちになったとき、実験スペースとして、水上家が思い浮かぶような場であるよう、ちょっとずつ、ちょっとずつ、育てていきたいわけですよ。


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