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残したいものがあるなら

だれかとなにかを一緒にやっていくときに、超絶気を付けていることは、根っこにある感覚が合うかどうか。これから、なにかを一緒にやっていく人がいたとしたら、思いや思考性の共有として、読んでもらえたらうれしい記事をみつけた。

"資本主義社会において、あなたの消費活動は投票行為でもあるんです" - 「予約の取れない店」が3年で閉店に追い込まれる理由

小商いにおいても、場の見えない価値を磨くためにも、リピーターの存在ってすごく大事なこと。これは、地域における関係人口や移住人口の文脈でも同じことが言える。

足を運ぶ側としては、話題のためにブランドをしゃぶり尽くすだけの消費でなく、気に入ったところなら残す・生産するための2度目が必要なのだろうし、足を運んでもらう側としては、また通いたくなるような魅力をつくるもてなし、場合によっては、来客のある種のフィルタリングも不可欠かもしれない。

ぼくがバーテンダーや営業職などを経て、今あらためて感じるのは、悪意は全くなくとも人間は嘘をつく(特に、日本人はおべっかいを使う)ので、言葉を鵜呑みにするよりに、2度目があるかどうかの結果を確かめたほうがいいなぁ、ということ。

本当に心地よい体験がその空間でできていれば、言葉に出そうが出さまいが、また足を運んでくれるものだ。

「残ってほしいんですけどねぇ」と口にはするも、足を運ばない人はたくさんいる。その場所「いいね」を言ってるだけ、押してるだけでは、経済活動は進まない事実もある。

行政が絡んだ、大型複合施設なんかもそうだ。名前は挙げないが、つくる前、つくったばかりの頃は、話題性があって、「一度くらいは」とみんな足を運ぶのだが、そこでの消費の持続にはつながらい残念な施設はそこそこあり、「税金の無駄遣い」と非難を受けるものすらある。

もう一度言うが、消費しない人が"悪"というわけではない。その人たちには、時間なり物理的距離なりそれぞれの理由はあるはずで、単に責められるものではないだろう。

もしかしたら、「経済活動」「消費」が起こる仕組みというのを、基本はお金がベースになっているとはいえ、それ以外の消費の仕組みつくるのも現代に置いては大切な視点なのかもしれない。過去にも触れた、物技交換などを条件に足を運んでもらうことも、一つの消費なのではないかと思う。

お店の商いの性質、場の性格にもよるだろうが、どのようにその空間を利用できるのか、その条件の選択肢を増やすことが、足を運んでもらう側のまだまだ考えられる余白もあるはずだ。

場の運営者の気持ちとしては、初見をないがしろにしたいわけでなく、たがいの目に見えやすい利益うんぬんを優先させるよりも、2度目3度目と関係性が続いて新たな広がりが出てくる、そういった人と向き合うほうがうれしいし、やっていても楽しいだろうとも思う。

(おもしろいことに、この感覚は「移住」の文脈においても、人の流動がうまくいっている地域において重視されてることが多い)

お客様は、もちろん、店主は、神様であるわけはなく、そこにその存在を置いてはいけない。人対人でしなくて、たがいの活動を、物なのか技なのか金なのか、なにかしらの形において応援し合えるかどうか、ただそれだけのことじゃないか。



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