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何者であるか、を手放せ。

自分が何者なのかなんてわからなくていい、どうだっていいことだ。

他人にある程度を説明できる肩書みたいなものは必要だけど、それによって自分を語りつくすことなんてできない。だって、その肩書は、自分のほんの一部でしかないのだから。

だから、何者かになろうとして、”その肩書”を得たところで、何者かになれているのだろうか。手段としての肩書であって、目的ではないはずだ。その言葉に振り回されてしまっている、もっと言えば、他人の目を気にした言葉にすがってしまうというのは若者が通る道なのかもしれない。

あの頃の自分に対しての叱責がほとんどなんだけど、おそらく10~20代は、自分の存在証明を必死に探して、「自分だけにしかできないことを」とたやすく口にしては、わかりやすくて他人から賞賛されやすいものを目指してしまう。

自分が思い描く自分を、他人にも知ってもらおうという押し売りにも近いような存在証明をしようとする。しかし、それはちょっと間違っている。

本当の意味で、自分が何者かを決めるのは自分でなく、他人でしかない。自分の言動を加味しながら、他人のなかで解釈しやすいようにラベリングをしていく。名づけは他人に委ねられている、と考えるようにしたほうがいい。

これは、「がんばる」という言葉に近いような気がする。自分がどんなにがんばっていると思っていても、それを口にしていたとしても、その姿を眺めている他人がそう思わなければ、成立しない言葉。自分の「がんばる」は無意味で、横柄で、自慰的だ。他人からの「がんばってるよね、あの人」という評価があってこそ。自分に執着しちゃいけない。

あともう一つ、自分で何者を規定することは、そこからの変化を遮断するための壁づくりでもあるように思う。2~3年後に自分が何をしているかわからない、どこにいるかわからない、それくらいの不確かさは持っててもいい。

バーテンダーとして働きはじめた21才のぼくは、自分が記事を書いたりだれかに書いてもらうようなメディアの仕事をするとは思ってなかったし、場の企画運営や、知人のwebサイトのコピーライティングをするだなんて想像もしてなかった。それに、日本遺産/伝統芸能についての映像制作に携わったり、ましてや鳥取大山で暮らしているとは1年前ですら思ってもいなかった。

そのときやっていることに対して、頭のなかで汗をかき、自分なりの意味を考えていく。決めることは大事だけど、決めすぎない。決めることは安心を生むし、決めないことは不安だけど、自分が思う自分をいくらか手放しておく。

そうやって歳を重ねることで、やることが変わり、他人から見た「自分が何者か」が変わっていくのがおもしろいんだ。何者かを決めずに、ずっと何者かを確かめ続ける、でいいじゃないの。つねに仮説で。

過去の自分に言い聞かしてやりたいし、どこかできっと日和るときがあるだろうから、未来の自分に対しても「日記を読め」という気持ちで書き留めておく、そんなあんばいだろうか。とりあえず、30歳を目前とするぼくは自分が何者かだなんてわからない。わかってたまるかコンチクショウと思ってる。


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