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ローカルがフラットになるとき

「移住」「まちづくり」「地域活性」など、言葉として興味はないが、そういう分野にいながらにして、そういう言葉を自身でも扱うような事象・人(っここがおもしろい)と付き合っていると、その言葉の"そもそも"と向き合わざるえなくなる。

移住ってなんだ? まちづくりって? 地域活性って? 

そんなあんばいで、関わっていく以上はずっと頭を悩まされるものだろうし、それはそれで楽しいからまあ問題はない。とりあえず、上記の言葉は、あくまで「"結果"でしかなく、暮らしをつくるための"手段"の一つ」なのかなぁ、と今は仮説として思っているところ。

そして、もう一つ。よく使うけど、「その意味ってなんなんだ?」と考えてしまう言葉が「ローカル」である。自分が使うときの違和感と、他人が使うときの違和感はちょっとだけ異なる。

都会にいると、ほとんどの人は「ローカル」は遠くにあると思ってるようだけど、都会も一つのローカルだし、というか、今あんたが住んでるその場所にもがっつりローカルはあるよ、と言いたくなるときがある。

例えば、渋谷や新宿もローカルなわけで、海外に目を向けると、アムステルダムやニューヨーク、香港なんてのもローカルなのである。

「local」は訳すると「土地の、地元の、一地方特有の」とある。若者がワーっと集まって、人混みばかりで、あちこちにビルが立ち並んで雑多なイメージのある渋谷も、その風景をつくってきた背景があるわけで、"一地方特有の"の文脈はある。また、新宿であっても、歌舞伎町や甲州街道の宿駅だった歴史などを紐解けば、ローカルたる理由を見つけることもできるはずだ。

地方創生の流れもあってか、地方や田舎など自分たちにとって都合のよい「ローカル」像ばかりを扱い、見せびらかし、なにか煽っている風潮には、おぞましさすら感じる。

とはいえ、都会もローカルであり身近なローカルがあることは、灯台下暗し、ずっとそこにいると気が付きにくい。隣の芝はなんとやらで、やはり無い物ねだりになるのは生理的にしかたなく、都会にいようが、気づきを生んでくれる"よそ者"の視点と声を拾える仕組みが必要といういうことに違いない。

都会から地方、地方から都会、どちらの流動も、両者の混ぜ方を意識された場所があることも大切だ。

ローカルが、「どっちが優れている」かを不毛な議論をするような、都会vs田舎(地方)の対立構造から脱して、横並びにフラットな関係性を意味しますように。まだ凸凹している、し過ぎている。大都会も限界集落も、どこもかしこも暮らし働く土地の選択肢の一つであれ、と。

まずは、各々が現在地点を知るために、広範囲で、遠くにあるものも知ること。

Googleマップでいえば、今いる市町村レベルから、都道府県、日本、アジア、世界というような"ムシの目"から"トリの目”を持って、「ローカル」を観察できると、自分の半径5mの景色をもっと楽しめる、おもしろがれるんじゃないかと思う。

自分のすぐそばをローカルを見つけよう、そのために、遠くのローカルを見てみよう。おそらくそれは、各地で暮らす人たちに対する敬意のかたちでもある。なんてことを、最近はついつい考えてしまう。

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