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アダプタは本当に必要だったのか

外でPCを使うとき、充電用のアダプタを忘れると不安になる。「おいおい、大丈夫かよ」。そんな自分に対して不安を感じたことが幾度となくある。

充電しながらPC作業をしていれば、つねにバッテリー100%でいられて、我は無敵なり!と思ってしまうんだけど、その反面、電源につながっている安心感が怠慢の背中を押している気もする。

いつでもそこにある、という油断が緊張感をゆるませ、パフォーマンスの質を落とす。

アダプタを忘れたときは、残り○○%と電源残量を気にするから、無駄に使わないようにと、紙やペンを使ってのアナログ作業が増える。じつは、こっちのほうがネットサーフィンなどのよそ見が減るので効率的だったりもする。

そう、PCを開いての作業はそんなに多くない。アダプタがあるときは惰性で電力を消費してるだけ、というせつない事実を突き付けられる。

だから本当は、外出先ではアダプタはなくてもいいのだ。なのに、ないと不安がるのは、ゆがんだ依存のせいだろう。パブロフの犬のごとく、反射で「アダプタ無え→心配だ!」となり、無性に心をかき乱され、電力に弄ばれてしまっている自分がかなしい。

”なくてもいいもの”を”なくてはいけないもの”と思い込んでしまっている自分はもはや病的である。それがないときにすぐに狼狽えるようでは、バイタリティもへったくれもあったもんじゃない。

ないならないなりに頭を使ってエネルギーなり時間なりをやりくりしながらやってのけるのが人間だとすれば、より意識的に、充足よりも”不足”をこの身に置くようにしたい。

制限があったほうが、いや、制限があるからこそ、人間はクリエイティブを発揮することができる。そう信じつつ、適度にアダプタは適度に忘れつつ、外に出かけてみようと思う。

アダプタがないのは不自由だけど、それがないことで自由にもなれる、っていうのは不思議なことだけど、認めざるをえないっす。

壁のコンセントからPCへ、PCからキーボードを打つぼくの手へ、と見えない鎖に繋げられたなかじゃなく、充電中の点滅から解き放たれた、制限のなかで闘ってみる。じゃあ、いってみますか。残り71%。



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