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指から喉へ

友達って、いわば「最高のおもちゃ」じゃないですか。そしておもちゃということは、お互いに使い捨てを前提とした関係でもあるんです。これは冷たい言い方に聞こえるかもしれないけど。

年明けてから、境港にある「一月と六月」で買ったものの、しばらく放置してしまっていた一冊に手をのばしてみた。その本は『古賀史健がまとめた糸井重里のこと』。

人の歴史にこそ関心があり、さらには、広告の本を読みはじめた20代前半から好いてやまない糸井さんの”自伝のようなもの”として、これがおもしろくないはずがない。

読みはじめると、なにがそうさせるかは後から考えるとして、もぐもぐおいしく食べていたらふと魚の骨が引っかかるように、突如やってくることばへの違和感がある。

この段階で言えるのは、それは”いい違和感”であるということ。自分という人間を読み解くための記号になりうるものであるのは間違いないということだ。

で、冒頭のフレーズである。糸井さんが「ひと好き」になれたのは、幼少期の頃の友だちのおかげである、という話の中のことばである。

正直ここでそのフレーズの解剖をしようとは思ってなくて、これを書いてる自分でもびっくりするほど話は逸れるのだけど、これまで書写を手動でちまちまとやっていたのが最近変わった、という話がしたくなった。

手動の打ち込みはワンキー押すたびにことばが身に染み入るかんじがあって好きだけど、長くなればなるほど手間になるのは否めない。で、音声入力でやってみたら、これがまたすんなりといったもんで、入力されたことばたちをあっけらんと眺めてしまった。いやね、もちろんうれしさはあるのだけど。

ひとつ発見があって、打ち込む作業の代わりに声に読み上げる、この朗読スタイルが身体的かつ新鮮でいいなぁという気づき。声に出して読むだなんて、まともにやったのは高校生くらいじゃないだろうか(最盛期は小学生)。

この感覚はいいぞしめしめ、と思ったので、だれが聞くこともないのだけど、しばらくは朗読スタイルで、違和を感じたことばを心の貯金箱に放り投げていこう。

Photo by Ben Kolde on Unsplash



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