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い/ないの中に

町の”ない”と、妖怪は”いない”という感覚は、うわあひどく似ているなぁ、と思った話。

今日、人生初の松江に足を踏み入れた。初めての町に行くときは、散策しながら、wikiやGoogleを連動させて、自分なりに地域の輪郭を掴んでいくようにしている。

松江駅周辺をうろちょろしていたら、ガタついた商店街や歓楽街をみつけて、テンションが上がった。そういう場所でも、破壊と再生はあるもので、IMAGINE. COFFEEのように通りが廃れるなかで若い人がはじめたいい感じのお店がいくつかあって、局所的に活気づいているところをみつけると心が弾む。

とはいえ、あくまで”局所的”なもんで、松江駅周辺には無機質なビルが並んでいて、”THE地方”の名を欲しいがままにできる町だと多くの人は感じるかもしれない。すぐそばにある百貨店やショッピングモール、駅ビルの中は全国どこにでもあるようなお店が並び、個人商店は少なく、町の表情がわかりにくい。

少し移動すれば、温泉があり、松江城があり、という観光スポットがあるが、松江駅を通過する人たちにとって、この場所がどう映るんだろう?

歓楽街を抜け、ローソンと工事中のビルの間にある、日陰の当たらず歩行するのを避けたくなるくらいのっぺりとした道を目にして、ふと上のような疑問が湧いてきた。

そして、「あ」と心の中で一瞬立ち止まる声が聞こえた。似てるなぁ、と気づいたのだ。

よく「この町は何もないところだよ」という言葉をよく聞くけど、この「何もない」と決めつけちゃう感覚って、妖怪などの「目には見えない」ものの存在を一つも楽しめない、と宣戦布告をするようなものだと。

何も”ない”と言われるところでも、じつは建物がかっちょいい、とか、コーヒー文化においては全国的に一目置かれてる店があるだとか、一つ視点を定めれば、おもしろがれる要素はあって、何もないの中に「ある」を見つけられる

妖怪の銅像かなんかがあるとはしゃぐくせに、目の前にかたちとしてその存在を確認できないと、妖怪なんておもしろくもなんともない、と思うのは、”いない”ものを自分から感じようとしてしていないからだ。天気雨のときに、嫁入りの狐とそれを祝う親族たちの姿を思い浮かべられたら、いないの中に「いる」を見つけられる。

そう、”ない”とか”いない”の中での”ある”とか”いる”の発見は、「おもしろがっちゃおう!」という感覚があってこそで、まちも妖怪も、付き合いにおける考え方の根っこは同じなんだよね。

それを、「地域(にすである物/事/場所/人)の(再)編集」と表現する人がいるけど、とりあえず、妖怪とのつながりを見い出せた、そんな気がした。あ、英語で考えたら、一単語、"be"の話だったわけか。

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