マニュアルを超えてゆけ。

「マニュアル」は良いか悪いかでいえば、ぶっちゃけケースバイケースなんだけど、「マニュアル思考」はぶっちぎりで悪だと思っている。

仕事でも趣味でも何でも学ぶものがあったとき、武道の「守破離(守→破→離)」という段階があるように、まずは型を守ることは大事なこと。このときマニュアルという存在は、初心者には二日酔いの朝に飲むしじみ汁のようにやさしさに溢れている。

さて、話を進めよう。もしマニュアルに対して「なぜそれをやるのか」を教えられなかったとしても、とにかく自身でやってみるといい。学ぶとは「真似ぶ」であるように、四の五の言わずに動きながら、それをやる意味を自分なりに考えてみる。

そうやって、身体(やること)に思考(やる意味)が馴染んできたら、なんちゃって武道家としてはいいあんばいになる。根っこに思考がないと、破や離という次のステップに進んでいけない。

だけど「とにかく自身でやってみる」には危険性も孕んでいて、その”意味”に辿り着くことなく、マニュアルが”作業”になってしまうことだけは避けたいこと。ただの作業になるということは、”思考停止”状態を繰り返すことになる。これが、マニュアル思考。

たとえば接客業において清掃をするとき、「床を掃除する」というマニュアルがあったとして、さあさあと手を動かすなかで、壁が汚れていると気づいたらどうするだろう。

マニュアルが「床を掃除する」だからと無視するようであれば、十分すぎるほどにマニュアル思考である。

そもそも掃除をしているのは「その空間をみんなが気持ちよく使えるようにするため」であり、マニュアルに記してるのは「よく汚れる場所だから」という理由だけだとしたら、壁の汚れを無視していいはずがない。そこには意味を尊ぶ思考がない。

「マニュアルに記されてなかったので」

そんなことばで責任を逃れ、目の前の状況をよりよくしようと考えることなく、思考停止で動いてる(さらにそれで偉ぶっている)人は苦手だし、できれば関わりたくない、と常々思っている。

マニュアルが良しとできるのは、型のおかげで思考を身につけられる場合においてであって、マニュアルを超えられないかぎりは、人を縛りつけるだけの義務を押し付けてくる紙っ切れでしかないし、リスクはそれなりに伴う。

あえて曖昧路線でいえば、マニュアル(というハード)を生かすも殺すも、それにことばを添える人(ソフト)に掛かっている部分もあるっちゃあるのだけども。

文字の垂れ流しでまとまらないけど、マニュアル思考に自分がならない/他人をさせないように、慎重に丁寧にしたほうがいいコミュニケーションはたくさんある。それだけは確かなんだよなぁ。

とまぁ、ここで一年分くらいの「マニュアル」を連呼した気がするや。

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「ハレ/ケ」のケのことを気にして、記録していく日記(のようなもの)
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