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飽きるまででいいから

物事をうまく進めるために、やたらめったらと決めすぎないようにしている。ぼくが熱しやすく冷めやすい性格だからというのはあるし、決めないからこその余白で遊びたいからというのもある。

「可変性のあるプランをつくる。最悪、計画はポシャってもいい」

そんな言葉が埋め込まれた、ぼくの脳みそ。そのときの状況に合わせて動けるほうが気持ちいいと感じちゃうのだ。

たとえばの話ね、京都で金閣寺に行こうと決めたはいいものの、移動途中で、好奇心を掻き立てる怪しげな古本屋なんかを見つけて長居したり、たまたま会った人と話し込んだり、その流れでお酒を一緒に呑みにいくことになったりとか、それくらいプランが崩れちゃっても問題ない。

結局は、人との約束さえない限りは、自分の好奇心が赴くままに動ければよいわけで、「面白そうだなあ」のアンテナに引っ掛かるものがあれば、いくらでも中身は変わってもいい。

シンプルにいえば、気分屋なのだ。いや、ド・気分屋? ザ・気分屋? 

そう、気分屋がたくさん集まったら、「あなたの気分の移りようには敵いません」と言わしてしまうくらいの。ドラゴンボールみたく、”気分スカウター”があるとしたら、測定限界値を越え、故障爆発しちゃって、相手に恐怖を感じさせるくらいの。それくらいの気分屋で、自分で自分にビビるときさえある。

逆の立場になると、気分屋の気持ちはよーくわかるので、1年以上も会っていなかった友人とした前々からの約束が「今日、雨だから」という理由でドタキャンされたときも、「そんなもんだよなあ」とすぐに納得できたりもした。

さて、そんな気分屋で、好奇心を糧にしながらのびのびと生きていると、「まわりの人にどれだけ迷惑をかけないようにするか」という処世術を学びはじめようとする。だからか、人の付き合うとき、人を巻き込むときは、ちょいと繊細にはなる。

契約的に、期間を決めて関わるという関係性はピンとこないし、そういうのが苦手だし、相手を縛るような感じさえしてちょっと嫌いだ。だから、「あなたの好奇心が続くなら、関わってもらえたらうれしい」という姿勢をとるようにしている。

仕事も、仕事までいかないプロジェクトでも、たとえ恋愛であっても、そこに一緒にいたり、何かをするときは、「自然と続くなら」という前提をもとに動く。諸行無常の理に乗っかっちゃてるといえば乗っかっちゃってるし、去る者を追うこともおそらくない。

「飽きるまででいいから、一緒にいてください」

こじれながら年を重ね、大人になりきれないぼくと関わりを持ってくれる人たち全員に伝えたいことがあるとしたら、その一言に尽きるかも。

そういうのしかできなくてごめんなさいなのですが、そういうのでいこう、そういうのでいくしかない、とも思っているので、よろしくお願いします、と各方面にとどくように、と嘘偽りのないよう書いてみました。

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