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ミクロな変化 / 家が自分の一部になる

 朝早起きすると、気持ちがいい。精神的な話ではなく、日中は蒸し暑くてイヤになっちゃうのに、朝はひんやりとしていて、体を撫でるようにやってくる風もやさしく心地よい。

 我が家は小さな川沿いにあるんだけど、朝は静けさも増して、じょびじょびと水が流れる音も和やかな気分にさせてくれる。

 ”三文”になるかはわからないけど、こういう早起きの得を一度味わって初めて、朝起きることが苦痛じゃなくなってくる。人間の体というか、欲ってのは、ホント現金なもんだなぁ、と思いながら、令和初の夏の習慣づくりに勤しんでいる今日この頃である。

 そして、朝の日課として畑の水遣りがある。畑というか、菜園規模の小さなものなのだけど。

 土いじりをし始めてからの心の変化というのはいくらかあって、雑草を伸び放題にさせておくと、不思議と「恥ずかしい」気持ちになること。ご近所さんに、手入れをしていない様子を見られることはなんとか阻止したいと思うようになった。また、野菜がうまく育っていない様子がバレるのはイヤだから、ちょっとでも多く収穫できるように調べることも調べるし、実践することも増える。

 おそらく、家という物理的スペースが、自分の一部になってきているのかもしれない。だから、散らかしっぱなしの部屋を見られるように、本棚を覗き込まれるように、(イヤンと真っ裸を晒すように、畑にもどこか恥ずかしさを覚えるようになったんだろな。

 家の事をやる、と書いて「家事」なんだけど、土いじりも家事の一つであって、家を整えていくうちの大事な作業だと今では思うようになった。

 毎朝、水を遣りながら、色づき始めたトマトにほくそ笑んだり、気を抜いていたら育ちすぎたオバケきゅうりに少々慌てたり、間引きせんといけない箇所を考えてみたり、畑を通じて、日々の移ろいを感じる。また、自身には何も変化がなく成長してねぇなおい、と叱責する気持ちも、作物の成長をみると、どこかで自身を肯定できる媒介を一つは見つけた気がして嬉しくなるときもある。

 マクロ的に見れば、まじで大したことない、世界の中の、日本という国の、鳥取県の、そのまた小さな集落にある家の、ほんと小さな事でしかないんだけど、そういうミクロな変化への気づきを噛み締められることも、おそらくは「小さく暮らす」ことの一つ。

 幼い頃は、母親が庭で土いじりしてる姿をして、何が楽しいのかよくわからなかったけど、30台になってなんとなく掴めてきたような気はするし、これはこれで、血筋なのかなぁとあたらめて感じたりもする。

  さて、今週末あたりは、雑草抜きならぬ”雑念抜き”をするタイミングなんじゃないかなーと予想しつつ、また家の事と向き合っていければと思うとります。 

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