はなはにほへど

日常になるほど気がつかなくなるもの。その最たるものが匂いのような気がする。実家にはイヌがいるが、玄関を開けた瞬間に彼の匂いが出迎えてくれる。その匂いで、「家に帰ってきたー!」と実感するのだ。でも数時間後には、そんな懐かしさをくすぐる匂いもすっかり感じなくなっている。

また、先輩がしてくれた匂いにまつわる話がある。パリにある学生都市には各国がつくった学生寮が建っている。留学中の先輩はその中のインド館に部屋を割り当てられた。入居初日、寮に足を踏み入れるとそこは一面スパイスの香り。自室はもちろん、エレベーターやロビーまで、スパイス・スパイス・スパイス。あまりの香りに何を食べてもカレー味に思えてくる空間に「これはまいった」と思っていたらしいが、3日経った頃にはカレーの匂いはどこかへ消えてしまっていたという。
匂いというものは一番身近であるがゆえに、いの一番に感覚に取り込まれて、早々と慣れてしまうのだろう。
街にも匂いはある。日本とパリを行き来すると、そのことがよく分かる。飛行機を降りて、空港の空気を吸った瞬間、それまでとは違う街にいるのだとすぐに実感する。日本の匂いとパリの匂い。どちらが良いなどないけれど、パリの香りにはピリッと身が引き締まるし、日本の匂いにはやっぱりホッとした気持ちになる。頑張ってロマンチックな表現をしてみれば、離れていた恋人と久しぶりに再会して、その匂いにふんわりとした安心感をおぼえるあの感じ。普段は気にしなくても、意識の深いところに染み付いた匂いの記憶は確かにある。
そういうエピソードで有名なものの一つがおそらくプルーストのマドレーヌの話だろう。『失われた時を求めて』という小説の冒頭に、主人公がマドレーヌを紅茶にひたして食べると、その香りで幼い頃の記憶が引き出されるというシーンがある。(この種の体験を科学の分野では「プルースト効果」と呼んでいる。) 私は子どものころ体が弱く、しばしば風邪をひいていて、お湯に溶いた葛根湯をよく飲まされていた。そのせいか、葛根湯の香りを嗅ぐと子どもの頃の熱を出した時の感覚が蘇ってくる。まさにプルースト効果だ。
香りといえば、こんな言葉もある。
——香水をつけない女に未来はない。
元はポール・ヴァレリーの言葉で、のちにシャネルが引用したことで有名になったものなのだけれど、これもある意味、プルースト効果のことを言っているのではないかと思う。香水でも柔軟剤でも何でも、いつもまとっている香りはその人の印象や記憶と密接に結びつく。だから自分の香りを持つことは、相手に自分の記憶を染み込ませることになる。逆に言えば、香りを持たないと印象が弱まるということになろうか。そういう意味で「香水をつけない女に未来はない」のかもしれない。
どこからともなくホノリと同じ香りがして、その瞬間に自分のことを思い出してもらえたら…。ああいいなあ。一応、愛用の香水はあるので、彼らの言葉にしたがえば、未来は「ある」はずなのだ。が、しかし……。来るべき未来は一体いつになるのか。誰か教えて欲しい。


(2017.7.7発行 『FR JAPON』n˚415掲載)

イラスト:©︎comiho (https://peraichi.com/landing_pages/view/comiho)


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aya kuroki

Tableaux Parisiensーーパリとわたしと〇〇と

パリ発行のフリーマガジンにて連載中のエッセイ。 ヘイボンでちょっと斜に構えがちなパリ暮らしをありのままに書いています。(発行元より許可を得て掲載しています。)
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