2024/04/19

取引先でコーヒーを出されて「ブラックでいいですか?」と問われた時「あ、はい」と答えてしまう。俺は本当はミルク欲しいしなんなら砂糖も欲しいし出来ることならオレンジジュースの方がずっと嬉しい。しかし、言わない。それはわざわざミルク持ってきてもらうのも悪いからであって俺がコーヒーに苦しめばそれで済むからである。けど向こうもミルクを添えるくらいなんてことないだろうと言うことも分かる。こういった"明らかに不適切だが流れ的にスムーズだからこっちにしておこう"という事がいっぱいあって、例えば俺は乳首いじられてもほとんど感じない、乳首をいじられながらジェンガが出来る人間なのだが「乳首感じる?」と言われると「少しは」と嘘をついてしまう事がある。これはコーヒーの会話と同じで問いに対して否定をすると会話の流れを阻害してしまう気がして俺はとりあえず肯定をする。そして俺は乳首をいじられ少し感じる演技をするのだ。
全く気持ちの悪い話ですが、こういった嘘を許容できるかどうかは人それぞれであって「いや感じないなら感じないと言えよ」と言う人もいるだろうがもうまったくもってその通りでSEXとは独りよがりのものではなく相互のコミュニケーションであるのだからそうするべきである。

"するべきである"で文章を終えるとまるでマッチョな文章になってそれ以外を許容しないような印象を与えてしまうのでここから更に一歩踏み込んで話をしたい。筋トレに行けないからって別にいいんですよ、と俺は言いたい。体がデカい人間が優位に立ってしまう風潮はそれ以外の人間にまるで劣等感を植え付けてしまうが全ての事象はフラットであって全ては自分を許せるかにかかっている。体の大きい人間は毒で殺せばいいのだ。

話を戻すと、俺がこういった嘘、作為をしてしまうのは前述のように会話の流れをスムーズにする為というものもあるのだが"乳首が少し感じる"という作為は自分のためでもあるからだ。
乳首は感じないより感じた方が良い、これは大江戸線より地下深くを流れる私たちの共通認識であるが感じない俺も感じる俺になる為に自己表現をし相手に引いては社会にそういった自分という客観視を形成するのが一つの目的なのである。
つまり自分という客観的評価に影響を及ぼすものは自己の発する自己表現に他ならないのだから「乳首を感じる自分」になり得る為にその為の作為を行うことは合理的であってそれそのものが自己実現と言えるからだ。コーヒーだって同じ、俺はミルクを入れたコーヒーよりブラックを飲めた方がカッコいいと思っているのだ。

他人にとってどうありたいかによって嘘をつくなんてことを許せるかもこれまた人それぞれであるが俺はこれに問題はないと考えている。他者がどう行動をしたかはそれだけが純然たる事実であって余程悪質でない限り我々はそれを受け入れるのみである。
ならばここで他者を度外視した場合、自分の在り方というものは本当に全ては自分が自分を許せるかだと思う。どうあってもいいんです。冴えない日々でも家族に話せる事がなくても恋人の愛してるに上手く返事が出来なくても、許せてしまえば楽になれるのだ。ちょっと休んでまた考えればいい。成功者の言葉は大きく映り、不幸は自分が幸せな時にしか話せないものであって本当に目を向けるべきは沈黙を貫く人であって、とにかく体と態度のデカいゲイは殆どが犯罪者なので気をつけた方がいいですよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?