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「ゆびさきと恋々」に学ぶ、イケメンは安寧を、標準化は利便性を提供する。

A「タマキくん尊すぎてつらみ、マジイケメンしか勝たん」
B「それな〜」


先日マクドナルドで隣の席に座っていた女子高生たちの会話である。盗み聞きは悪いなと思いつつも「タマキくんって誰やねん」と心の中でツッコミを入れていたら、一緒にいた奥さんも聞いていたらしく、小声で「タマキくんって、何?」とアヤナミレイ仮称みたいな口調で問われた。


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(謎の中毒性:『アヤナミレイ仮称』Twitterより引用)



聖書では地獄を表す用語として「ゲヘナ」という言葉が用いられる。これは罪人などの死体を埋葬していたエルサレムの南にある谷の名前が由来となっている。『新約聖書』の「マタイによる福音書第5章」にて、イエスは群衆に次のようなことを述べている。

兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

『新約聖書』マタイによる福音書第5章より引用 新共同訳


地獄に落とされる基準が恐ろしく低い。

ハラスメントに厳しい現代を基準に考えると、パワハラとさえ捉えられかねない。神の子でさえこの始末なのだから、世で働く中間管理職の皆様はもう少し肩の力を抜いて日々の仕事に取り組んでも良いのではないか。

だからといって「このクソ野郎!地獄に落ちろ!」なんて迂闊に本音を漏らしてしまうと一発退場なので、ここは「大丈夫?ゲヘナに投げ込まれられない?」と優しく伝えてあげるとインテリっぽくて良いと思う。

Tips!:暴言を吐きたい時は「ゲヘナに投げ込まれる」と言い換えると大抵はバレない



話しを戻すが、夕刻のマクドナルドには色んな人がいる。学校帰りの中高生、WiFiを求め辿り着いた若者、仕事に疲れた中年、暇を持て余した高齢者と幅広い年齢層が時間を潰している。

また、友人との会話に華を咲かせる席の隣で、今まで笑ったことあります?と不安になるくらい無表情な顔でパッサパサのハンバーガーと共に暇を潰す人もいる。俗に言う無の人だ。

私はこのような混沌とした光景を見る度に、「地獄だなぁ」と思う。


ファストフード店にいる無の人は何故かその存在が強調される。時間も希望もある中高校生という光と対比されることで、無の存在はさらにその影を落とすのだろう。「きっとこの先の人生も良いこと無さそうだなぁ」と思わずにはいられない人が生産性も無く時間を浪費する様は、まさに地獄だ。

そんなマクドナルドは現代のゲヘナと言っても過言ではない。


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(12世紀頃のマクドナルド:『Hortus deliciarum』Wikipediaより引用)



そのゲヘナで繰り広げられていた会話が冒頭である。

「つらみ・XXしか勝たん・それな」など、ネットでしか聞いたことがない言葉が飛び交っており、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。現世とゲヘナの文化は決して分かり合えない。異文化交流を図りたい人はマクドナルドに行くと良いと思う。


ただ、ゲヘナの会話は完全に異文化であったが、イケメンの存在価値が高いことは同じであった。イケメンは愛でる歓びと癒やしを与え、現世でもゲヘナでも平等に民に救いをもたらす。まさに救世主(メシア)のような存在である。

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(特にイケメンは価値が高い:『メイドインアビス』6巻より引用 つくしあきひと著)


色々と生きにくい昨今、手っ取り早く幸せになるにはイケメンから安寧を得ることが最も効率的かもしれない。そして最も手軽にイケメンの物語にふれられる手段は、少女漫画を読むことである。

少女漫画は、「救世主(メシア)であるイケメン」が「民であるヒロイン」におとずれる「ゲヘナの様々な困難」から救いをもたらす物語である。

ここまで読めばお分かりだろう。



少女漫画は・・・聖書だった・・・!



ということで、今回はいま一番アツイ聖書と(私の中で)名高い『ゆびさきと恋々』を紹介しようと思う。色んな人に怒られれる前に。



令和のイケメンは破壊力がメシア

『ゆびさきと恋々』は聴覚障害者の主人公・雪を主軸とした物語だ。本作は「第45回 講談社漫画賞少女部門」にノミネートされている。

作者は森下suu先生。調べて知ったのだが、原作担当と作画担当の漫画家ユニットのようだ。ユニットを組んだきっかけが『バクマン。』を読んで触発されたことらしく、俄然応援したくなってくる。

女子大生の雪は、ある日困っているところを同じ大学の先輩・逸臣に助けてもらう。聴覚障がいがあって耳が聴こえない雪にも動じることなく、自然に接してくれる逸臣。自分に新しい世界を感じさせてくれる逸臣のことを雪は次第に意識し始めて…!?

『ゆびさきと恋々』AmazonのHPより引用


数多いる少女漫画のメシア(イケメン)達は、多くの読者に救いをもたらす代わりに、割と傍若無人な振る舞いが許されている。初めてそれを感じたのは『ママレード・ボーイ』を読んだ時だ。

保健室で狸寝入りをする美希を相手に、唐突にキスをした遊はとても印象深かった。マジで意味不明な展開でキスをする遊の思考が全く読めず、ほぼサイコパスを見る目でしばらく読み続けていたことを記憶している。

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(サイコパスのキスシーン:『ママレード・ボーイ』1巻より引用 吉住渉著)


メシア達の傍若無人な振る舞いに慣れていない読者は戸惑いを覚えるかもしれない。『ママレード・ボーイ』連載当時の私も訳が分からなかった。「ごめんなさい。こういう時どんな顔すればいいか分からないの」状態だ。

あれから26年。順調に訓練され続けた私は、今ではメシア達の傍若無人な振る舞いを「うわぁ〜(歓喜)」という気持ちで楽しむことができる。こんな時は「笑えばいいと思うよ」ということを学んだのだ。

いつだって人は成長できるし、人生で大事なことはだいたいエヴァンゲリオンから学べる。昼下がりのコーヒーブレイクのように、自信を持ってゆったりと少女漫画を楽しめば良い。



・・・という自信が『ゆびさきと恋々』を前に粉々に砕け散った。本作のメシアである逸臣くんは今までの常識の外にいるニュータイプだ。

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(ニュータイプメシア:『ゆびさきと恋々』1巻より引用 森下suu著)


逸臣くんには、ありとあらゆるイケメンの要素がこれでもかというほど詰まっている。後述のイケメン要素をグツグツ煮込んで生まれたメシアこそが逸臣くんなのだ。

・顔面が抜群に良い
・高身長だけどヒョロくない
・落ち着いている(いっけん無愛想)
・心根はとても優しい
・気遣いもできる
・もちろん周りの女性からチヤホヤされるけど歯牙にもかけない
・ヒロインにだけ見せる笑顔が破壊的


伝統的な少女漫画のメシア達は優等生のように描かれやすい。成績優秀、スポーツ万能、気は優しく笑顔のたえない彼らは多くの読者を魅了する。特にこの傾向は小〜中学生を対象とした平成初期の作品に顕著で、高嶺の花であるメシアがなんの取り柄もない(が故に読者が没入しやすい)ヒロインと恋に落ちるストーリーが王道だ。


ところが逸臣くんはクールな印象がだいぶ強めだ。黒目がちで感情が顔に現れにくく、何事にも物怖じしない彼の姿は、少し威圧感があるとまで感じさせる。

ヒロインである雪にも遠慮なくガンガン接していくので、読み始めはだいぶ戸惑いを覚えた。加えてボディータッチも多めなので、「大丈夫?悪い男に騙されてない??」という読者の中の母親の側面が顔をのぞかせたりもした。

雪は聴覚障害を持っている自分に戸惑わず接してくれる彼に惹かれていくので、物語的になんら違和感はないのだが、読者である私は「逸臣くん、苦手なタイプなメシアだなぁ」と感じざるを得なかった。




彼が笑顔をみせるまでは。


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(クール系メシアの笑み:『ゆびさきと恋々』1巻より引用 森下Suu著)


世の中にはギャップ萌えという言葉がある。いささか旧世代の言葉な気もするが、この時ほどギャップ萌えの意味を「言葉」ではなく「心」で理解出来たことはない。

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(マンモーニな私にも理解できた!:『ジョジョの奇妙な冒険』53巻より引用 荒木飛呂彦著)


こうなってしまっては、後は彼の虜となるしかない。読み返せば無遠慮な振る舞いの中にも気遣いがあったことに気づき、少し強引な誘いもひょっとしたら彼が不器用なだけかもしれないと、全てが好意的に捉えられた。


メシアとは、ヘブライ語で「油を塗られた者」という意味の言葉である。これは紀元前の時代、聖別の際に油を塗られた者が理想的な統治を行ったことを由来に、救世主の意として用いられている。

読者を無条件で現世から解き放つ逸臣くんは間違いなくメシアであり、読者は彼に塗られた油でベトベトになりながら救いを感じることが出来る。『ゆびさきと恋々』は激アツの少女漫画であった。



手話という言語

うっかり逸臣くんの素晴らしさばかりを語ってしまったが、他に『ゆびさきと恋々』の特徴的な点として、ヒロインである雪が聴覚障がい者ということが挙げられる。

私には娘がおり、そして彼女は聴覚障がいを持っている。そのため、「聞こえ」をとりまく環境には少しだけ敏感だ。本作も「手話が丁寧に描かれてて面白いから読んでみて」と奥さんのろう学校友達から教えてもらった。


作中では手話や指文字が多く活用されている。本作は動きが多く紙面での表現が難しい手話を抜群に上手く描いていて感心する。手話に馴染みがない人にもわかりやすく、手話に馴染みがある人は物語をちょっとだけ深く理解できてお得になれる。

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(指文字で「ただいま」:『ゆびさきと恋々』3巻より引用 森下Suu著)


また聴覚障がい者への認識不足を補う下記のようなあるあるが嫌味なくサラッと描かれており、共感がヤバいのと同時に、これを機に理解が進めば良いなとも思う。

・補聴器をつければ聞こえるという誤解
・マスクをされると唇が読めないので花粉の時期は大変
・電話で連絡すると言われた時にリアクションに困る
・イヤーモールドは洗えるが補聴器は防水じゃない


なかでも一番共感したのが「使う人によって手話が結構違う」だ。

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(地獄のトリビア:『ゆびさきと恋々』3巻より引用 森下Suu著)


手話を覚えると結構便利なことが多くなる。離れていても会話が出来るし、周囲に聞こえたら怒られそうな会話も手話なら出来る。(私のように性格が悪い人には向いている言語だなと油断して、ある人の悪口を言ったら、その人が手話を分かる人でめっちゃ怒られた経験もあるので注意が必要だ。)

あと手話を知らない人は片手で1から5までしか数えられないと思うが、手話を覚えると片手で億まで数えることができるのでドヤれる。一般市民と超サイヤ人3の悟空くらい戦闘力が違うぞ!

(流石に「兆」は両手を使う:『手話講座#25【指文字「千万億兆」】』より引用 野々市市チャンネル作)


いろんな側面から興味を持ち、勉強しようと手話辞典を手にとったり、地域の手話教室に通うようになった時に直面するのが前述の「使う人によって手話が結構違う」問題だ。

奥さんが手話教室に行った時のことだ。ある手話教室でならった手話表現を別の手話教室で使った時に、講師の先生に「そんな表現はろう者はしない」と窘められたことがあった。首を傾げて帰ってきた奥さんが手話辞典で調べてみると、2つの手話教室で教えられたものとは全く別の表現が記載されていた。


一体なにが正解だったのか。ちなみに使用していた手話辞典は『わたしたちの手話学習辞典』、一般財団法人 全国ろうあ連盟が標準手話の普及を目的に発刊しているものだ。

『学習辞典』及び本書は、我が国の手話研究に少なからず貢献し、手話学習への便宜と標準手話の一層の普及に寄与しているものと自負しております。

『わたしたちの手話学習辞典Ⅱ』より引用 一般財団法人 全日本ろうあ連盟


このように割と強気な文章が本書の「はじめに」の項に記載されているが、本書の中にも「この表現、本当に使ってる?」という表現が多い。先の文章の続きを読み進めていくと、次のようなことが記載されていた。

また、本書は、『学習辞典』に掲載されていない日常用語や専門用語から約3000語の手話を収録しています。2010年以降に公表された、社会福祉法人全国手話研修センター日本手話研究所が確定した新しい標準手話も掲載しています。

『わたしたちの手話学習辞典Ⅱ』より引用 一般財団法人 全日本ろうあ連盟


要は、一般的に使われている手話表現とは別に、手話研究所が確立した手話表現も辞典には載っているということだ。

仮に「今日からこれが標準手話!」と発表されたとしても、皆が使わなければ標準手話とはなりえない。そのような表現が手話の世界には多く、何を標準に覚えていけばよいのかと途方に暮れる瞬間がある。



100万人と8万人の違い

現代日本にて多くの人は標準語を話す。もちろん各地域ごとに方言も存在するが、概ね標準語といえば国民の頭に浮かぶものは均一化されているだろう。この標準語が成り立つ過程に、なにか学ぶところがあるのではと思い、『標準語はいかに成立したか』という本を読んだ。


国内の言語を統一しようとする試みは、江戸が東京と改称された翌年の1869年から始まった。士農工商といった職業階層による分断や各藩の領地でしか暮らせなかった人の解放を目的に、国家を一つに、国民を一つに、そして言語を一つにという試みが行われた。

しかし言語の統一など容易ではない。様々な者が様々な方法を提唱した。下記はその一例であるが、ほとんど現実味がない。

・雅言主義:古語(いにしえことば)に回帰させる
・現代語の採用:京言葉と東京語のどちらかに統一する
・多数決:全国で一番話されている言葉に統一する


そんな中、後の東京文理科大学(現代は筑波大学)の学長となる三宅米吉(1860~1929年没)より現実味のある画期的な方法が提唱された。

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(歴史学者であり教育者:『三宅米吉』Wikipediaより引用)

社会的に国内の交流を増大させ、人々の接触を促進することによって、自然のままに、ことばを改変していくことが、言語統一の最上の方法だというのである。あくまで、言語に直接人為を加えることは否定しているのである。

『標準語はいかに成立したか』より引用 真田信治著


下手に手を加えなくても人々の交流が盛んになれば、自ずと言語は標準化されていくという、いわば「放置統一説」である※。
※私が勝手に名付けただけなので、一般的ではないことに留意


政治の場が京から江戸に移っても、暫くは文化やファッションは京が標準であった。その時代から徐々に東京の言葉が市民権を得たのは、江戸の街での交流が盛んであったからだ。

『標準語はいかに成立したか』では、武士や町人も含めた江戸の人口はおおよそ100万人ほどであったと推定している。これだけ多くの人が交流すれば、言語は次第に混ざり合い、やがて多くの人が使用する標準語に成熟される。

実際に国語教育として覚えさせられていた標準語が話し言葉として一般的になったのは、ラジオ放送の普及によって標準語に触れる機会が増えたからとされている。人々の往来だけではない、言語との交流が標準語を生んだのだ。


しかしこれらの状況は手話にはあてはまらない。

日本で手話を母語とする人口はおおよそ8万人(聴覚障がい者向け手話サービスへの情報技術の応用~Tech for the Deaf~. 大木洵人. 情報管理 2014 vol57 no.4 より引用)と、当時の江戸を基準に考えても交流が圧倒的に少なく、またラジオのようなコンテンツでの交流も望めない。

なかなか標準化が進まない理由として、母語とする人口の少なさがあるのではないだろうか。


まとめ

標準語の成り立ちを基に、手話の標準化がなかなか進まない背景を考察した。本記事で述べた考察が合っている確証はない。あくまで仮説としてそんな考え方もあるかもなと参考に留めて頂けると幸いだ。

『ゆびさきと恋々』にて、逸臣くんと雪は口話と手話を基にコミュニケーションを取っている。いかに逸臣くんがニュータイプメシアとはいえ、二人が育った文化は異なり、この先に衝突することもあるだろう。

そんな二人に『標準語はいかに成立したか』に記載されていた金言を送り、本記事を締めたいと思う。逸臣くんならきっと大丈夫。

日本人には、相手の言語が自分のと違うということは苦痛であるとともに、何らかのきっかけで反省の機会が与えられない限り、人も自分も同じ考え方をするものだと思い込む傾向がある。言語の違いをよく認識した上で、互いに理解しあおうというのが一般の国際理解の精神なのである(略)

『標準語はいかに成立したか』 真田信治著



ちなみに冒頭の女子高生の会話で登場したタマキくんとは『アイドリッシュセブン』の四葉環くんのことであった。まさかの二次元ではあるが・・・うん・・・イケメンだなぁ。

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(ゲヘナのメシア:『アイドリッシュセブン 四葉環 1st Photo book 環日和』Amazonより引用)


それでは。

(今までの記事はコチラ:マガジン『大衆象を評す』

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