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ゲーム機の進化が早すぎるので買えないという僕たち

今生でもPS5を買わない気がしていた。

一定数似た人が多いと思うんだけれど、自分のお金でゲーム機が買えるようになってからの方が全く買えなくなった。というか、特にゲームの時間の流れに追いこうとすることに虚しさを覚えることがある。

PS3が出たとき、僕は自分のお金で買えたはずだった。でも気づいたらPS4が出るというニュースを見た。このPS3の生存期間は僕の体感時間上、あまりにも短く、ゲーム機の儚さを思った。

いわんや、そのソフトウェアであるところのゲームの寿命はもっと短いはずだった。ナンバリングされたビッグタイトルがまるで大河の泡のように浮いては消えていく。

さらに最近のゲームは一本あたりのボリュームが何かの冗談のように大きい。一生遊べるような大きな泡のくせして、生まれては消え、生まれては消える、そのダイナミックな栄枯盛衰に僕はニヒルに構えてしまうようになった。

そしてPS4が出た。僕は思った。すぐにPS5が出てしまうだろう、僕はそれに追いつけないだろう。だから僕は買う必要がない。そうして実際に買わなかった。そしてPS5が出た。

***

結構モノを買うとき、その生存期間を気にする。

これはどれくらい使い続けることができて、メーカーはどれくらいサポートするつもりでいるんだろう? 物持ちがいいというほうではないし、気にしたことないけど、そう言えば結構モノを大切にする方なんだと思う。

この前、フッ素コートのフライパンを買った。金物屋にわざわざ行って、使い方を教わってきたもので、そのフライパン合わせてコーティングが傷まないようにシリコン製の色々も買ってきた。

そのフライパンを持って実家で料理をするとき、そのシリコン製の器具持っていくのを忘れてしまったことがあった。仕方なく実家においてあった金属製のおたまとかを使う。そのたった一回のことが凄く嫌だった。

金属製のおたまのせいでフライパンに傷がつき、そこから腐食するようなイメージが頭から離れない。なんて小さな人間なんだろうと我ながら思う。大した金額ではなかったのに。

でも価格とか、希少性とかは無関係なんだと思う。お気に入りなのだ。お気に入りに対する愛着が強いのだ。初めて買ってもらったゲームボーイとはずっと一緒に寝ていた。ポケモンのレッドのカートリッジはいまだに捨てられない。

昔はそれらが使えなくなることなんて考えられなかったけれど、いまはハードウェアには終わりがあって、それが割と明確に見えていることが凄く虚しい。

しょせん、人の作ったものなんて星の歴史の中では塵芥なのだ。

***

――などと。

などと、ずっと思っていた。

ずっと思っていたのだけれど、その感傷はちょっと行き過ぎているんじゃないかと最近思い直そうとしている。僕の寿命は長いのに、僕のお気に入りたちの寿命は短いという感傷は、まるで不死者の悩みである。

そこで事実を調べてみた。

PS3の発売日が2006年11月11日、PS4の発売日が2014年2月22日だった。その差は8年もあった。8年はこれまでの人生の1/5強にも値する、儚さを感じるにはあまりに長い期間だと思う。

要するに僕は、次のハードが出て自分のお気に入りが遺物へと押しやられるのが嫌なのではなく、自分がそれを活用しきる前に遺物になってしまうから嫌なのだ。

考えてみれば会社のイベントでもらったSwitchはいま埃をかぶっている。これがお気に入りの活躍状況なのかと思うと自分の甲斐性のなさが嘆かわしい。

「ゲーム機の進化が早すぎて」とか、「ゲーム機の寿命が」とか色々言ったけれど、実はプレイする時間なんてものは十分にあって、自分がそれにどれだけ時間を充てているかが、一緒に過ごす時間を決めている。

そしてこの主語に「ゲーム機」以外を入れても、きっと何でも当てはまることで、いつの間にかなくなってしまうものは、実は自分が優先順位を低く見積もってしまっているだけなのかもしれない。

そんなことを考えて。


だから僕は早めにPS5を買って楽しむぞ、と決意したのだった。


まぁ当たらないのだけれども。



P.S.

モンハンはどうせ僕が熟達する前に、新しいモンハンが出そうなので、ひとまず様子を見ようと思います。

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