私が会社を辞めて起業したわけ②

東日本大震災から12年②

さて建物から出た後は避難所に避難です。
近くの小学校が避難場所だったのです。当時の従業員は施設全体で割と
きちんと避難訓練していたのでお客様誘導も、スムーズでしたね。
(のちのちお客様から評価や感謝の声がいただけます)

とはいえ小学校に行くまでも道路はぼこぼこです。
余震も続くので周りも怖いです
当時の部下だったOは目の前で倒れてきた壁の下敷きになる人を目撃したそうです。
あと少しずれていたら自分も、、、という恐怖。
そしてその下敷きになった方は助からなかったそうです。
その場所にいても助けられない自分。逃げなきゃ、という恐怖。


余談ですが
3月11日はアパレルだともう春なんです。
春の新作がどんどん店頭に並ぶ時期。
皆さんはまだまだ寒くコートやダウンを着ますが、アパレルだった我々は春の新作を着て店頭に立っています。
うっすいJKやカーディガン、マフラーじゃなくテラテラなストール。7分丈ぐらいのパンツ。レディースなんかは半そででしたね。
出勤の時はあったかい格好をしますが、避難してきているんでそのままの格好です。

とにかく寒いんです。

地震の恐怖と寒さと
「果たして帰ることが出来るのだろうか」という不安もありました。
避難所に行くとたくさんの人がいました。校舎の中にも人がたくさん。
なんか独特の人のいるにおいがしました。

外のバッテリーで携帯サービスもやっていました。一人10分間の充電ですって。
100人以上並んでいました。ということは1000分以上。16時間近く待つのか。とても無理だとあきらめました。
援助も間に合ってなかったので、近所の民家の方が米を炊いてくれて配ってくれました。
2時間ならんでおにぎりを一つもらいました。
帰りはもう暗くなっていました。
セブンイレブンは電気も来ていませんでしたが、その時に店頭にある分の商品は販売してくれていました。
店員さんも被災者のはずなのに。本部から指示はあんなにすぐには来ていない思います。

自分たちの判断で、「食料が手に入らないだろう」「生活に必要なものは買えるようにしよう」としたのだと思います。
一人5個まで。商品すべて対象でした。必要なものは5個どころではありませんが誰一人文句を言うこともなく、みんな順番に並んでいました。

暗闇の中、電卓で計算してくれました。
私が行った時間にはもうすでにおにぎり、サンドイッチなどごはん系は
なくなっていました。私のその日の夕食はコアラのマーチでした。
部屋の中はローソクだけの暗闇だったので、眉ありコアラは確認できませんでした。

その時代、私は徒歩で出勤していましたので、歩いて帰ろうと思っていました。しかし同僚(車出勤)が「地震が怖い。帰り送っていくから一緒に帰ろう」と言ってきたので助手席に乗りました。
出発したはいいけれど、1時間かかっても数メートルも進みません。
信号は止まっている。地面は隆起して通れないところがある。車を乗り捨てて避難しているのでそもそも車が通れない。

途中で同僚を見捨てて帰りました。
家につく頃はもう真っ暗です。
当然電気は付きません。当時住んでいた家は1Kアパートです。
玄関あけると廊下兼キッチン、その奥に部屋があります。
部屋に入って1歩目の感触が

「べちゃ」
でした。調味料関係が全部落ちで割れてぐちゃぐちゃでした。
捨てるつもりでその辺のタオルでガラスなど割れた物ごと集めてはじに寄せます。
何とか部屋に入ると本棚が倒れて床に散らばっています。
大きめの鏡が倒れて割れています。
テレビ(その当時はアナログテレビで相当大きく重かった)がテレビ台から落ちています。
ベランダの網戸はぐちゃぐちゃです。かろうじて窓ガラスは割れていません。
トイレの便器もヒビがはいっています。お風呂の湯船もひび割れています。
ラッキー?だったのは前日にお風呂に入っていたのですが、その時お湯を抜き忘れていました。
飲み水には使えませんが、タオルを濡らして拭くことや、トイレの水を流すことが出来ました。
でも一瞬迷いました。「非常事態だし少しくらい飲んでも、、、」
自身の名誉のために言っておきます。飲んでいません。
ちなみにカップラーメンはお湯でなくても、水を入れて30分ほど置けば麺は柔らかくなり食べられます。
余震は続きましたが、どこに行くことも分からず。アパートの布団にくるまって寝ました。

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