永遠の声

夏の盛りだった。
茹だるような暑さもさることながら、蝉の鳴き声がとてもやかましくて、こちらの方がもう勘弁してくれと音を上げたい気分だった。
田舎の家は広いばかりで、庭に面した廊下は冷房もまともに効かない。薄ぼやけた窓ガラスの向こうに目をやると、隅々まで手の行き届いた日本風庭園が見える。変わらないな、と思った。陽の光を浴びて、青々とした葉は陽の光を反射して白くきらめき、鮮やかな朱色の鯉が悠々と泳ぐ池は夏空の青を写していた。
歳の離れた兄も、さらに歳の離れた父もこの庭を大事にしていた。自分が産まれるより前に他界した祖父も、この庭を愛していたらしい。
半ば反射的に、目を逸らしていた。どうにもこの庭は眩しすぎる。特に、今の自分には。

「かわいそうにねぇ、まだ若かったんでしょう?」
台所の横を通り抜けようとした瞬間、身体が強張るのがわかった。聞きたくないのに、耳を塞ぎたいのに、耳が特定の声だけを拾い上げ、他の音が世界から抜け落ちる。
「そうそう、交通事故だって話だけど」
「いつ起こるかわからないものね…」
「優しくて素敵な人だったのに」
黒い服の女たちが、悲嘆めいた溜め息や憂いを籠めた嘆きの言葉を口々に漏らす。
次に出てくる言葉が何かは、わかっていた。
「なのにあの人、お通夜もお葬式も泣きもしなかったのよ」
若くして夫を亡くした義姉の話。可哀想のオブラートに包まれた、毒にも薬にもならない無価値なゴシップ。近くも遠くもない親戚にとっては、兄の死にまつわる一連の出来事は昼過ぎのワイドショーと大差ない。
たいして悲しくもないんじゃないの、黒い服の一人が笑い話のように漏らした。
それはあんただろ。心の中の声に、それはあんたのとこの話でしょ、と間の抜けた他の黒い服の声が重なり、さらに大勢の笑い声が重なって増幅する。
ここは勝手な憶測と、下らない噂話の吹き溜まりだ。上っ面の同情心に包まれた義姉への奇異の眼差しが明け透けに見えて、身体中が嫌悪感で満たされていくような気がした。
蝉よ、もっと鳴いてくれ。全部かき消してくれ。あんなにうんざりしていたはずの鳴き声を頼るほかなかった。

線香の細い煙が揺らぎながら昇っていく。
今にも消えそうな灯なのに、燃え尽きるまで消えないのが子どもの頃から不思議だった。
義姉さん、と呼び掛けたつもりだった。が、黒の詰襟に締め付けられ、カラカラに渇いた喉からは微かな吐息だけが漏れていた。
仏壇に向かって両手を合わせ、目を閉じた義姉は余程集中しているのか、こちらに気付く気配もない。
黒いワンピースの袖口から伸びる陶磁器のように白い腕は、前に会った時と比べて、より一層細くなっている気がした。
風前の灯火のようだ、と思った。草花を心地よく揺らす柔らかな風でさえ、この人の前では害でしかないのだろう。
だがそうなってもなお、義姉は美しかった。
伏せられた目から伸びる睫毛は長く、艶やかな薄い唇は薄ピンク色に染められ、春風に舞う桜の花びらを思い起こさせた。
濡れたような黒髪の隙間から僅かに見える透明感のある白い首筋、その先の黒いワンピースに包まれた小さな背中。視線だけで、その背中をなぞった。
本当に触れたら、きっと、この人は壊れてしまう。そんな予感がした。
どうして、兄は。どうして。何度考えたかわからない、考えてもどうしようもない想いがループする。
心の中の様々な想いを振り払うように、呼びかけた。
「義姉さん」
その声に驚き、身体を揺らす義姉。
義姉がこちらを振り向くまでの一瞬は、永遠にも似ていた。

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