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夢野久作と福岡 作品の舞台めぐり

先日、イベントで博多を訪れる機会があったので、夢野久作の作品に出てくる場所を巡ってみました。夢野久作は福岡の出身で、作品にも福岡の地名や建物がよく登場します。今回訪れた場所と作品は以下の通り。

・九州大学医学部(ドグラ・マグラ
・箱崎水族館があった辺り(ドグラ・マグラ
・筥崎宮(山羊髯編輯長
・九大〜箱崎駅周辺(空を飛ぶパラソル
・櫛田神社(押絵の奇蹟
・川端飢人地蔵尊(押絵の奇蹟

「ドグラ・マグラ」といえば九大医学部

夢野久作の代表作「ドグラ・マグラ」の舞台となったのが九大医学部。敷地内はすっかり新しく現代的な建物ばかりとなっていますが、門は昔のままで、かつての姿を偲ばせています。

「……ここは……九州大学……」
 と独言のように呟やきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。
 その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、微かにビクリビクリと震えた。或はこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。
「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。
(夢野久作「ドグラ・マグラ」)

作中で斎藤教授と正木教授の溺死体が発見された“筥崎水族館裏手の海岸”はこの門から徒歩20分ほど。と言っても病院の敷地がとても大きいので、敷地内で一番近い箇所からなら10分程度でしょう。

「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。(中略)そうしてその翌あくる朝早く、筥崎水族館裏手の海岸に溺死体となって浮き上っておられたのです。
(夢野久作「ドグラ・マグラ」)

筥崎水族館自体はもうずいぶん前に閉館してしまったのですが、現在の馬出4丁目交差点の南西角辺りにあったようです。国道敷設と海岸の埋め立てに伴い、当時とはすっかり様子が変わっているのが今昔マップからもわかります。

写真を撮り忘れたので、参考までにGoogleストリートビューのスクリーンショットを。筥崎水族館があったと思われる場所の現在の様子です。

現在ではかなり海岸線が後退していますが、かつては現在国道3号線が通っている辺りまで海だったようです。唯一、当時の海岸線を維持している箇所は、筥崎宮の鳥居がある「お潮井浜」のあたり。おそらくここだけは当時のままなのでしょう。

筥崎宮と「山羊髯編輯長」

筥崎宮は「山羊髯編輯長」という作品の第二話「両切煙草の謎」にも出てきます。

 福岡市外というから箱崎町はかなり遠い処かと思ったら何の事だ。町続きで十分ぐらいしか電車に乗らないうちに、筥崎神社前という処に着いた。鳥居前に立ってみると左手の二三町向うに火見櫓が見える。田舎の警察というものは大抵火見櫓の下に在るものだ。事件は警察の直ぐ近くで起ったんだなと気が付いた。
 思ったよりも立派な神社なので、思わず神前にシャッポを脱いで一銭を奮発した。
(夢野久作「山羊髯編輯長」)

こんなことを言うと地元の方に怒られてしまうかもしれませんが、私も主人公と同じように「思ったより立派な神社だ」と思ったのでした。この日はちょうど結婚式が行われていたり、七五三の参拝客がちらほら見られたりと、地元では割と重要な神社のようです。

主人公は新聞記者で、箱崎には事件の取材のために訪れました。その現場となったのが、筥崎宮の北側。下の写真は筥崎宮北側の道です。本文には“境内一面の楠の下枝と向い合って”という記述がありますが、境内東側は立派な楠が繁って小さな森になっているので(写真右奥)、事件現場は写真の奥辺りでしょうか。今はマンションや駐車場になっています。

九大と「空を飛ぶパラソル」

筥崎宮から15分ほど北上すると、九州大学の箱崎キャンパスがあります。今は伊都キャンパスへの移転が進み、ほとんど使われていないようです。

「空を飛ぶパラソル」の冒頭部、物語の始まりとなるのがこの正門。

そんなようなタヨリナイ苛立たしい競争の圧迫を、編輯長と同じ程度に感じていた遊撃記者の私は、ツイこの頃、九大工学部に起ったチョットした事件を物にすべく、福岡市外筥崎町の出外れに在る赤煉瓦の正門を、ブラリブラリと這入りかけていたのであったが、あんまり暑いので、阿弥陀にしていた麦稈帽子を冠り直しながら、何の気もなく背後をふり帰ると、ハッとして立ち止まった。
 工学部の正門前は、広い道路を隔てて、二三里の南に在る若杉山の麓まで、一面の水田になっていて、はてしもなく漲り輝く濁水の中に、田植笠が数限りなく散らばっている。その田の中の畦道を、眼の前の道路から一町ばかり向うの鉄道線路まで、パラソルを片手に捧げて、危なっかしい足取りで渡って行く一人の盛装の女がいる。
(夢野久作「空を飛ぶパラソル」)

当時は一面の水田で鉄道線路まで見渡せたようですが、今ではすっかり住宅地となっているため、何も見えません。

少し北側に歩くと線路側に抜ける道があるので、ここから線路の方を見てみましょう。道の突き当たりにマンションが見えますが、この裏側が線路です。

距離は約150m。線路まであと少しのところを歩いている女の様子、パラソルの柄、バッグのデザインまで分かるとは主人公はずいぶん目がいいようだ……なんて思っていたのですが、よくよく調べてみると、どうやら当時と今とでは線路の位置が違うようです。

箱崎駅を通る鹿児島本線は高架化に伴い東側に移動していて、もともとは今よりも西側、つまり九大側にありました。今昔マップで見ると、現在、鹿児島本線の左側に平行に並んでいる太い道路くらいの位置に、昔は線路があったことがわかります。九大前の道から、かつて線路があった場所までは100mほど。これくらいなら、その途中にいる女の様子を観察できてもまぁおかしくはないかな、という距離だったように思います。

祇園と「押絵の奇蹟」

さて、今回は中洲にほど近い祇園に宿をとったのですが、このあたりは「押絵の奇蹟」の舞台となっています。タイトルにある「押絵」が奉納されているのは、博多祇園山笠などで知られる櫛田神社。

そうして博多駅より二つ手前の筥崎駅で降りまして人目を忍びながら、私の氏神になっております博多の櫛田神社へ参詣致しまして、そこの絵馬堂に掲げてあります二枚の押絵の額ぶちに「お別れ」を致しました。
(夢野久作「押絵の奇蹟」)

こちらも筥崎宮に負けず劣らず立派な神社です。

境内図を見ると、絵馬堂らしきものはありません。ただ、かつてはその年の当番町が山笠当番記念として人の身長ほどもある大きな絵馬を製作し、奉納していた歴史があるそう。当時は絵馬専門の絵師もいたほどでしたが、写真が普及すると、山笠写真が奉納されるようになります。もしかすると、山笠絵馬が奉納されていた頃は絵馬堂があったのかもしれませんね。(神社の人に聞いてみる時間があればよかった……)

櫛田神社を西側に抜けて、中洲の方へ歩いていくと川端飢人地蔵尊があります。「押絵の奇蹟」の主人公はこの辺りで生まれ育ちました。

 私の生家は福岡市の真中を流れて、博多湾に注いでおります那珂川の口の三角洲の上にありました。
 その三角洲は東中洲と申しまして、博多織で名高い博多の町と、黒田様の御城下になっております福岡の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋が架かっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋の袂の飢人地蔵様という名高いお地蔵様の横にありますのが私の生家で御座いました。その家は只今でも昔の形のままの杉の垣根に囲まれて、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでおりますから、どなたでもお出でになればすぐにわかります。
(夢野久作「押絵の奇蹟」)

今は、ホテルや駐車場になっています。


もう少しじっくり検証したかった場所や、回りそびれた場所もありましたが、限られた時間の中ではまぁまぁ頑張って回れたのではないかと思います。作品が書かれたのは昭和のはじめ頃。博多も箱崎も、当時と今とではすっかり景色が変わったのだなということがよくわかりました。

今回、「少女地獄」の「火星の女」に出てくる天神の森まで行く余裕がなかったので、次に福岡を訪れるときには行ってみたいです。

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