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都をどりと吉井勇・谷崎潤一郎・川端康成

先日、都をどりを観に行ってきました。京都・祇園甲部の芸舞妓さんらによる舞踊公演で、明治時代から続く桜の時期の風物詩です。昭和19〜24年の6年間は戦争によって休演しましたが、その後の復興期には歌人の吉井勇が作詞で携わるなど尽力したことでも知られています。

吉井の依頼により、作家の谷崎潤一郎が狂言を手がけた年もありました。谷崎は、初めて関西を訪れた際に書いた随筆「朱雀日記」で都をどりを散々にけなしているのですが、後年、関西に移り住み関西びいきになるとともに都をどりも好きになった様子。妻・松子とその姉妹との生活をモデルに書いたという『細雪』でも、春の恒例としてその名前が出てきます。

で、常例としては、土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年欠かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持って来た弁当の折を開き、午後には市中に戻って来て、平安神宮の神苑の花を見る。(谷崎潤一郎『細雪』)

また、川端康成の『虹いくたび』にも主人公たちが都をどりを観に行くシーンがあり、物語において重要な舞台となっています。

通常、都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催されるのですが、今年は耐震工事のため四条南座での開催でした。例年行われている公演前のお茶席がなかったのは少し残念ですが、一方で、歌舞練場以外での開催というのは、戦後、進駐軍の接収により歌舞練場が使えなかった3年間以来のことなので、レアな体験と言えるかもしれません。

『虹いくたび』の都をどりも、上記の理由で歌舞練場が使えず、南座で開催された時の話で、当時の作詞に携わった吉井勇の名前も出てきます。

明治五年から七十二年続いた都踊も、戦争のために昭和十八年で中絶していたのが、この春は七年ぶりに復活したのだと、麻子は言った。(中略)
都踊の小屋の歌舞練場は、興行会社に貸したままで、映画館になっているので、今年は南座で催されているのだった。(中略)
この春の都踊は「よろこびて歌詞をつくらむ、若き日の祇園風流を思ひ出でつつ」と歌う、吉井勇の作詞であった。(川端康成『虹いくたび』)

都をどりは、毎年その年にふさわしいテーマを設けて新作が披露されるのですが、構成や背景にいくつかの決まり事があり、その部分は毎年変わりません。『虹いくたび』には舞台や踊りの様子も描かれていますが、銀襖の前で「都をどりは」「ヨーイヤサァ」の掛け声から始まる第一景、幕を引かずに幻燈のように移り変わる背景、桜の枝と扇を持って踊る終曲の総踊りなど、川端康成が描いた通りのものが今も舞台上で観られるというのはなんとも不思議な心地でした。

都をどりの基本的な構成は、全八景の一幕仕立て(第一景から第八景まで幕を下ろさずに移り変わる)。京都の名所旧跡を舞台に、四季折々の風情を表現します。今年は正月の恵美須神社や紅葉模様の桂離宮、桜の大覚寺などが描かれました。また、今年は南座にちなんで、第四景「四条河原阿国舞」には歌舞伎の始祖・出雲阿国が登場。第七景「祇園茶屋雪景色」には歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」を意識した歌詞が織り込まれていました。

第七景は、窓の向こうに雪景色が見える、祇園のお茶屋さんを舞台にした長唄。歌詞の中に、吉井勇が祇園白川の茶屋の情景を描いた「かにかくに祇園は恋し、寝る時も枕の下を水の流るる」という歌が引用されていたのが印象的でした。

余談ですが、かにかくに〜の歌は、白川沿いに歌碑としても残されています。吉井勇の古稀のお祝いとして谷崎潤一郎らが建立したものです。谷崎はこの歌碑をよほど気に入ったのか、拓本にして熱海の自宅の襖に仕立てました。谷崎はこの拓本に使う墨を、普段筆や墨を購入していた「香雪軒」というお店に発注し、襖が出来上がった際にはその写真を店主に送っています。このお店は今も京都で営業を続けていて、店内にこの襖の写真とそれを送った際の谷崎の手紙が飾られています。


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