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松阪と文学とすき焼き

2018年8月31日
旅の途中、松阪に立ち寄った。松阪城址で梶井基次郎の作品を思い出し、和田金のすき焼きに谷崎潤一郎の作品を思い出した。そんな旅の覚書。

鶴橋の駅から伊勢志摩ライナーに乗り、10:41に松阪駅に降り立った。しばらくして友人の車と合流。この日は13:00に松阪牛のすき焼きで有名な和田金を予約していたので、それまでの時間つぶしに松阪城址を散策した。建物はもう何もなく、石垣だけが残っている。中ほどまで登ると、石垣の角に木々が少なく街に向かって開けた場所があり、景色を見てみようと歩いていくと、青空の手前にどっしりとした石碑が目に留まった。

近づいてよく見ると「梶井基次郎文学碑」という題と、中谷孝雄による書で『城のある町にて』の一節が刻まれている。(中谷孝雄は梶井の京都時代の友人である。)

”城のある町にてより
今、空は悲しいまでに晴れてゐた
そしてその下に町は甍を並べてゐた
白堊の小学校 土蔵作りの銀行 寺の屋根
そして其処此処 西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて
緑色の植物が家々の間から萌え出てゐる
昭和四十九年春 中谷孝雄書”

そういえば『城のある町にて』の舞台はこの町だった、とそのとき思い出した。この作品は、梶井が松阪町(現・松阪市)に住む姉夫婦一家のもとで過ごした実体験をもとに書いた私小説的作品と言われている。作品に登場するI湾は伊勢湾のことだろう。作中、主人公はしばしば城址を訪れ、景色を眺めたり、訪れる人々を観察したり、蝉の声を聞いたりしていた。

平日の昼間だったので城址に遊ぶ人はあまりいなかったが、作品とちょうど同じ夏の終わりで、蝉が鳴き、城址から見下ろす景色は”西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、家々の間から萌え出ている”植物が、芭蕉なのか、糸杉なのか、松なのかわかる程度に近く、梶井が描いた頃とは随分と変わっているだろうが、町に生活している人々の様子が眺められた。

1世紀近く前のある夏の日、梶井はこの場所からこの開けた空を仰ぎ、遠くに伊勢湾を臨んだのだろうか。敷地内に植えられた樹齢300年という藤棚は、今よりはいくらか控えめで、しかしやはり青々と葉を茂らせていただろうか。そんなことを考えながら、城址を後にした。

さて、本来の目的は城址ではなくすき焼きである。松阪には松阪牛を出す店がいくつもあるが中でも有名かつ高級なのが和田金だ。創業は明治11年で、明治34年には今の場所に店を構えていたようなので、梶井も前を通ったことがあるかもしれない。(梶井の日記によると東京では頻繁に牛肉を食べていたようだが、松阪で食べていたかどうかはわからない。)

贅沢すぎるだろうかとも思ったが、せっかくここまで来たのだからと、「寿き焼きコース」の松を注文。個室の真ん中に置かれた輪島塗の円卓は特別製で、中心に火桶がはめ込まれている。そこに中居さんが熱い炭を据え付けると、冷房で冷やされた肌にじりりと熱気が迫る。

すき焼きが出てくる前に、前菜が順番に供される。炙り焼きにした牛肉をごく薄く切って赤ワインのジュレを添えたもの。志ぐれ煮。夏野菜と牛肉をゼリー寄せにしたもの。玉ねぎのムース。

「肉すまし」なる椀物は少し変わっている。お椀の底に吸い口の青柚子皮と、粗挽きの胡椒と、生の牛肉が一枚盛り付けられていて、ここに熱い出汁を注ぎ蓋をして15秒。蒸されて色の変わった牛肉を、香りの良い吸い地と一緒にいただく。ひとつひとつは小ぶりで、あっさりとして、胃袋を圧迫しないが、風味豊かな料理が五感を楽しませてくれる。

そうこうしている間に炭はさらに赤々と熱くなり、中居さんがすき焼きの準備を整える。時折炭がパチ、パチ、と音を立てる。

よく熱した鉄鍋に牛脂を塗り、人の顔ほどあろうかと思われる大きくて分厚い牛肉を並べると、砂糖とたまりをかけ、少ししてから少量の昆布出汁を注ぐ。肉を返すと、たまりと出汁に砂糖が溶けたものが沸騰し、肉の下でジクジクと音を立てる。谷崎潤一郎の「痴人の愛」に、主人公が浜田という男と牛鍋をつつくシーンがある。”ジクジク煮える鍋を囲み”のジクジクという音は、なるほどこの音であるなと思いながら、柔らかく甘く、大きく分厚い牛肉をとろとろとした生卵に絡め、ハフハフ、ズルリズルリと頬張った。

牛肉もうまいが、野菜もうまい。肉厚でジューシーな椎茸、香りの良い舞茸、甘く煮えた玉ねぎ、爽やかな風味の三つ葉。さらに、牛肉のエキスと煮汁が溶け込んだ卵液を、ご飯にかけてすするのも良い。牛肉だけでもお腹いっぱいになりそうな量だが、さらに卵2個、ご飯2杯を腹に収め、あぁ満足、と思ったところにもう1品。中居さんが火桶の炭を崩して均し、その上に金網を載せると、小さな餅を焼き始めた。弱めの火加減でこんがりと焼いた餅に、あんこをのせた餡もちがデザートである。この後さらに、水菓子のメロンも出てくる。

あぁ満足。実に満足。豪勢な見た目に期待が膨らみ、ところどころに仕掛けられた演出に驚き、こだわりの食材に舌鼓を打つ。五感を使って味わい、胃袋だけでなく心までたっぷりと満たされた。1人前1万8千円也。ランチには随分贅沢だが、しっかりお値段分楽しめたのではないだろうか。

ひとつ残念なことを挙げるならば、今後すき焼きを食べるたびに、あの時食べたすき焼きはもっとうまかったと思い出してしまうだろうということくらいだろう。実に残念なことである。

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掬屋一

食べることと読むことと旅することが好き。文豪ゆかりの食べ物を作ったり食べたりします。 C95 3日目 東P60bにて、文豪ゆかりのレシピを文献を元に再現する文豪ごはんシリーズを頒布予定。 https://musubiyahonpo.jimdofree.com/

旅と食とときどき文学

旅行と食べることが好きな筆者の旅日記。だいたい食べてます。
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