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「人が死んで悲しい」の意味がわかった話

言葉で表しきれないからマンガにしようと思ってたけど、読み返したら「これはこれでいっか」と思ったので残しておく。葬式、卒業式、結婚式。「式」とつく場で涙する人間でありたかったけれど、ちっとも理解できないまま大人になった。そんな、感受性が死んでる女の日記です。


死は、縁遠くなった人物との別れに似て、ただもう会うことなく、時に思い出されては懐かしい、というものである。

そう思っていた。
なので、これまで人の死を悲しんだことがない。

母方の祖父が死んだ時は、死の間際で学校に遅刻すると泣いていた。
父方の祖父は、遺骸を見て「あぁ、からっぽだ」と思った。
同級生の死は、家族の悲しみはいかほどかと推量した。

祖母の葬儀は、死の9日後、2月7日に執り行われた。


肺を病んでいた祖母は、以前から喀血を繰り返し、その度に手術をしていた。母から聞いたことには、死の前週からまた喀血があったそうだ。1月末、インフルエンザが流行している時期であること、呼吸器系の患者が多い療養所であること。その状況下での喀血。結核を疑われた祖母は、一人部屋に移されていた。長期療養型の病院のため、専門の医師はいない。

祖母の頭ははっきりしており、毎日こと細かな記録を残していた。当日も、午後2時ごろの書きつけが残っている。息を引き取った晩、療養所にかけつけた叔父は、口元に少量の喀血のあとを見たという。最後の書きつけからその瞬間までの詳細は、誰にもわからない。

私はこの療養所に行ったことはなかった。木々に囲まれた森のようなところだと聞いている。

祖母には、およそ数ヶ月会っていなかった。朝、母から喀血を知らされ、臨終の報告があったのは夜7時ごろ。聞いて、ただ「そうか」と思う。会っていなかった、一抹の後悔。悲しみはなく、涙が出ることもない。


それから一週間後。遺体を見たのは、納棺のときだ。はじめて知ったのだが「湯灌(ゆかん)」といって、遺体を湯浴みさせてくれるサービスがあるらしい。専用の浴槽に横たえられ、男女二人がかりで祖母の体を洗っていく。清め終わると、死出の旅の準備をみなで手伝う。私は「爪にオイルを塗るように」と促された。死後はじめて触れた祖母は、冷たく、柔らかかった。

母は「死の直後とは顔が変わってしまった」と言うが、死化粧師のおかげなのか、まるで生きているのと変わらぬように見える。しかし、湯灌のときふと見えた首から肩にかけては青黒くなっていたので、見える部分だけ、とくにそうしてくれているのかもしれない。

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このとき、私は写真を撮っている。死を聞いてから、胸に生まれた後悔が棘となって、「死に顔だけでも残さねば、永遠に後悔するぞ」と、疼きで私に知らせるようだった。生前の祖母の記憶を、死に顔で書き換えることがなぜ後悔を和らげるのか。自分でもその理屈は説明できないが、ためらう気持ちより、戻れない時に対する焦燥が勝った。焼けば、二度と姿形は戻らない。


通夜が終わり、翌日は告別式だ。戒名には「春光」と入っている。暦では春。二月にはめずらしく、陽の光がとても暖かな日だった。

出棺の前、前日に棺のなかに入れた写真の上から、さらに花を入れていく。生花に埋もれていく祖母の顔を見て、小中学生のいとこや、親類のなかにもすすり泣く人がいる。

葬儀場から送り出し、焼き場へ。最後にお経を上げてもらい、祖母のお棺が炉へと入っていくのを見送った。焼き終わるまで、2時間ほど待つ。

焼き場の控え室に行くとき、ほかの部屋の前を通ったので、別の家族も目にした。一部屋目。30人ほどだろうか、大勢が集まっている。二部屋目。母と息子と思われる二人だけがいる。亡くなったのは誰だろうか。気になっても、知る由はない。本日焼き場はフル稼働だ。冬は亡くなる人が多いのだろう。

遺骨には、一緒に入れた写真などの成分がうつったのか、緑やピンクになっているところがあった。それをすべて骨壷に納める。

祖母は、お骨になった。


葬儀場に戻り、親族は精進落としをいただく。部屋の壁の中央には、いま納めたばかりの遺骨と写真、白木の位牌が置かれ、同じ精進落としの料理が供えられた。両脇には、祖母が好きだったピンク色の花もある。

先ほどまで、みな祖母や知り合いの話をしていたが、いまはどういうわけか一言も発しない。黙々と箸を口に運んでいる。

小一時間ほどたったところで、喪主である叔父が促し、参列者は祭壇に手を合わせてから帰って行く。部屋のなか、親類がぞろぞろと出ていく傍らで、私は手持ち無沙汰に立って様子を眺めていた。


ふと、左後ろを親類の誰かが通ったとき、なぜだか説明できないが、「祖母がいる。振り返らなければ」と思った。一人でいる私に、祖母が寄ってきて何か言う。おそらく笑顔で、「なぁに、ぼうっとしてるのよ」。

祖父が亡くなったのが20年以上前。それから、毎回の法事は祖母が仕切っていた。叔父の家族と私たち家族、親類が揃う場面には、必ず祖母がいた。同じこの顔ぶれを見て、当然祖母もいると錯覚したのだろうか。背後の気配が祖母へと置き換わって、無意識に、起こりそうな場面を予測したのかもしれない。

振り返る。
もちろん、いない。
祭壇の白い箱が目に入る。
なんともつかぬ違和。
すぐに気づく。
ああそうだ、いないのだった。

今日は、祖母の葬式なのだった。


とたん、涙がこみ上げてくる。
不意のことに、自分でも驚いた。

いつも祖母がいた場に、祖母がいない。
この人たちの輪のなかから、祖母だけが抜け出ていなくなった。

唐突に、そうか。と思う。
きっとこれを、「人が死んで悲しい」というのだ。

この日、人が死んではじめて泣いた。


親類が去ったあと、私たちは、葬儀で使用した諸々を持ち帰るため、祖母の家へと向かった。

祖母の家は、もう祖母の家ではなかった。

ものも、痕跡も、いつもの雰囲気も、すべて残っているのに、ただ祖母だけがいなくなっている。

いつも線香をあげていた仏壇。すぐそばに置かれた机の下には、帳簿など、仕事で必要な書類がまとめて置いてある。その前が祖母の定位置だ。そこに正座し、後ろに手を伸ばしてノートを抜き出す祖母の姿が容易に目に浮かぶ。「あんた」と話しかける祖母。私と母のふざけた話に呆れる祖母。会うたび必ず、「祖先がつないだ血を、未来につなぎなさい」と私を諭す祖母。

この場にいると、祖母の断片を尽きず思い出す。
子供のころ、物入れの障子を開けるとたしなめられた。もう使っていないダイニングテーブルの上、茶を淹れる祖母。もらった菓子を持っていけと言う。よくカルピスを作ってくれた、ガラスのコップが収まっている食器棚。上で飛び跳ねると怒られるソファ。
月が追いかけてくるとはしゃいだ夜道。教えてもらった月の形、花の名前。

ここには数年後、遺品整理が終われば、叔父の家族が住むだろう。仏壇の前の定位置には、今度は叔父か、その奥さんが座るのかもしれない。いとこたちは大きくなって、伴侶を連れて、その子供が遊びにくるかもしれない。老いた私たちは、正月には挨拶に来て、増えた家族で賑やかに騒ぐのかもしれない。そして誰かが死ねば、また葬式に集まるだろう。

そうやって入れ替わりながら続いていくこれを、祖母は一番大事にしていたのだと、その空席を前にして悟る。「血をつなぐ」とはこういうことか。叔父や母、いとこたち、そして私。生きているものが、またつないでいく。その一助になることの尊さが、いまなら少しわかる。
いつかこの家で、祖母の話をまだいない子らが聞くとしたら、なかなか素敵じゃないか。

日頃の無感情にも、ようやくわかった。みな、死を思って泣くのではなく、思い出を思って泣いているのだ。

2019.02.07 深夜(2019.05.19 加筆)

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