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「カラビ=ヤウゲート 深淵の悪魔」/第二十三話

下柳の上半身を抱え起こした瞬間、恋河原の頭頂部から、すっ、と光の点が抜けでる。その小さな光点は、2人の周囲を高速で何度か回っていたが、ふいに下柳の額に吸い込まれていき、その明滅を止めた。

「下柳さん、しっかりして下さい!」

身体を揺すられた下柳はゆっくりと目を開けた、かのように見えた。その時、堀川があわてふためいた声を上げた。

「み、美穂ちゃん!は、離れるんだ!は、は、早く」

「え?そんな、いま手は離せません」

そんな恋河原の声が聞こえているのかいないのか、下柳はどこかぼんやりとした表情のままゆっくりと自ら立ち上がった。支えようとした恋河原の左腕を、誰かがグッと引いた。

「ちょ、なんですか」

転びそうになりながら恋河原は不満の声を上げる。

「よく見てください、下柳さんを」

恋河原の腕をつかんだままそう呟いたのは、いつのまにかその場に合流していた森林だった。

促されるままに下柳を見つめると、すぐに異変に気がついた。下柳の体にピントが合わず、ぼやけて見える。VR映像の二重写しのようだ、と恋河原は感じた。

「堀川先生、これはもしや」

森林が堀川に顔を向ける。

「おそらく、コヒーレンスだ。こんなものが可視化されるとは・・・」

「・・・コヒ、なんですか?」

恋河原は下柳に目を向けたまま、尋ねる。

「仮説だが、今目の前に見えているのは『生きている下柳さん』と『死んでいる下柳さん』、両方の可能性の二重写しだ。彼女の生死は量子力学的にまだ、確定していない」

「・・・そんな!こうして生きてるじゃないですか!」

「先生、彼女の生死が確定するのは、どの時点でしょう」

森林が聞く。

「『観察者』の観察により彼女の生死は確定する。あるいは宇宙が場合分けで分裂する、もしくはそれ以外のなにかしらの事象が発生する」

「・・・わからない、ということですな」

「・・・端的に言えば、そういうことでもある」

「恋河原さん」

その場にいる全員が、ビクリと身体を震わせた。下柳の口から言葉が発せられたからだった。

「あなたには本当に感謝しています。どうやら私はこの世界での役割を終えたようです。私はこのゲートが閉じる前に、あちらへと旅立ちます」

「違います、下柳さん!私はあなたの記憶を見ました。あなたは自分の人生を投げうって、この世界を守り続けてきた。あなたはもっと幸せになっていい。幸せにならなければならない人なんです」

熱く訴える恋河原の瞳から、大粒の涙があふれ出す。

「ありがとう。でもいまは、この世界を残すために、私はいかなければならない。そうそう、恋河原さん。あなた、気づいているのかしら?身体に負担をかけてはダメよ」

恋河原に小さく微笑みを送った下柳に向かい、森林が涙声で語りかける。

「下柳さん。いや、美佳子さん。ならば私も共に行こう」

「いまの私がゲートの向こうに行けば、死と生が分離され、私は体を持たぬ意識体としてのみ存在し続けるでしょう。でもあなたは、肉体を持ち続けたままで悠久の時を過ごすことになる。それはあまりにも不憫。・・・クロノスのみんなのこと、お願いね」

死者と生者、二重写しの下柳は応接室の奥に目をやる。『能力』を下柳に返した恋河原を含む周囲の人間には、ただの壁にしか見えないその場に、下柳はふらふらと歩み寄り、そして振り返った。

「いつかまた、夢で会いましょう。ではね」

下柳はそのまま、応接室の壁を越え、見えないゲートの彼方へと消えた。

「み、みがごぉーぅ!!」

がっくりと腰を落とし両手を床についた森林の慟哭が響き、恋河原はきつく唇を嚙んだ。他の面々は一様に言葉を失っていた。


☆☆☆☆☆

・・・なんだ。なんなんだこれは。

岩田哲明43歳とその妻子は、テレビの前で固まりながら絶句していた。自分が、自分たちがいま、何を見ているのかが理解できなかった。

光の輪の中から抱き起された初老の女性が、二重写しに見えていたと思ったら、壁の中に吸い込まれるように消えてしまった。

特撮?ニュースの時間だと思ったが、特撮番組だったのだろうか。

「ねえ、見てこれ!」

中学生の娘が差し出すスマホ上では、ツイッター動画がひっきりなしにアップされ、パニック状態になっているようだった。

ふと気づくと時計は19時を回っていたらしく、テレビ画面はいつものバラエティー番組に切り替わっていた。

夢、だったのだろうか。それとも集団幻覚?

岩田哲明43歳の脳は、いま目にしたものを処理しきれずにいた。


☆☆☆☆☆

大日本テレビがいつものバラエティー番組を放送し始めると、北都テレビの副調整室には安堵と脱力の空気が広がった。

そりゃそうだろう。放送する側も見る側も、あれが限界だ、と紅林は思った。社会が崩壊する一歩手前だったかもしれない。手近な椅子を引き寄せて腰を下ろすと、紅林は深いため息をつきながら思いを巡らせた。


ひとつ。

全道のみならず、全国に、そしてSNSを通じて世界にまで『怪異』を情報発信したことにより、ひとまずは『破れ目=ゲート』の危機は去ったはずである。なぜなら『悪魔』はその情報をすべての人間から消去する必要があり、それには相応のリソースを食うことが想像されるからである。

ふたつ。

下柳女史の現世への救出は叶わなかった。彼女は自らがこの世界に留まることで世界が分裂することを恐れ、異世界?異次元?へと旅立っていった。

みっつ。

『悪魔』の脅威は去ったのだろうか。不明である。かの存在は遠くない未来に、もしくは過去にすら、現れる可能性はある。

とりあえずいまは、と紅林は椅子に座ったまま、がっくりとうなだれる水沢に声をかけた。

「よう、タバコくれないか」

水沢は胸ポケットからごそごそと、なにやら引っ張り出しながら答える。

「・・・箱ごともってけよ。っていうかお前、吸うんだっけ?」

「4年前から吸い始めてね。・・・貸しは確かに返してもらったよ。邪魔したな」

いまだ興奮の冷めやらぬ北都テレビの報道フロアー。行きかう人の流れを縫うようにして紅林は姿を消した。


<続く>


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