夏が終わっても (3901字)

浴場の近くに売店があったので湯冷ましに缶ビールを買って、ロビーに向かった。ややさびれた、しかし大きい田舎の旅館のロビーに宿泊客は誰もいない。ソファに座って、窓の外を見た。来るときにぱらついていた雨は、やんだらしい。今は屋根からの雫が、百日紅の上にタンタンタンと落ちている

「おーい」
黒ラベルを飲んでいる私のほうへ、手を振りながら小走りで近づいてくる。 白地に薄紺の浴衣を着た彼女は、湯上りで紅潮し、ソファの上でだらしなくなっている私を指さして笑う。そんなあなたを見つめて、私はこの一年を思い返す

最高気温が30度を超えることが少なかった昨年の夏の終わり、私は仕事が終わらずに焦り、冷や汗をかいていた。一度は出た会社に戻り、スーツを脱ぎ、シャツの腕をまくった。しんとしたフロアで
「よしっ!!」
と気合を入れた
「ゴホッゴホッ」
咳の音。色素の薄い病弱そうな女性がいた。知り合って何年もたつ。ほとんど話したことがない。ほとんど知っていることがない。多少の気まずさはあったが、悠長なことは言ってられない。パソコンの電源を入れた
日付が変わっても、仕事は遅々として進まない。パソコンをにらんで頭をかかえる。コーヒーを飲むために席を立つ。目に入った遠くの彼女もパソコンをにらんで頭をかかえている。目が合う。お互い、苦笑するしかない
お盆の幽霊がいつ地獄へ帰ってもおかしくない時間帯になっても、仕事は遅々として進まない。上司に叱責される映像が何度も浮かんで、冷や汗で風邪をひきそうになったころ、視界に缶ビールが現れた
「黒ラベル買ってきた」
黙って彼女を見つめていると
「お互い終わらんみたいだし、もう酔っぱらわん?」
終わる気配がない私は缶を開けた(ちなみに私はキリン派なので普段なら黒ラベルなんて断固拒否だが、メンタルが崩壊寸前であり、もうどうでもよくなった)
ビールを飲んで投げやりになってパソコンに向かうと、仕事はあっけなく終わってしまった。気が抜けた。彼女を見ると既にやり終えたようで、窓の外の朝焼けを眺めてビールを飲んでいた。私は席を立った
「終わったよ」
「お疲れ様」
そのまま30分ほどビールを飲んだ。出身地や趣味、好きな食べ物、行きたい場所、これからやりたいことなどをポツポツと話した。橙の光を受けながら私は、黒ラベルもいいな、と生まれて初めて思った

暑くもなく寒くもない過ごしやすい気候であった昨年の秋のはじめ、映画が好きらしい彼女から何本かおススメの映画を聞いた。普段は映画など時間の無駄だと思っているが、たまには良いだろう、と会社から帰宅途中にレンタルDVDショップの会員になり、何本か借りてみた
シャワーを浴び、常備してあるわさび味の柿の種とキリン一番搾りをお供にぼんやり眺める。気になったシーンが出てくる。チャプターを戻す。また気になるシーン。戻す。気づくと就寝予定時刻をとっくに過ぎていた。…ん?面白い?
次の日も帰ったら映画を観た。気づくと就寝予定時刻をとっくに過ぎている。気づくと目が潤んでいる。これまで淡々と人生を過ごしてきたのに。私にこんな感情があったのか…
翌週、彼女に感想を伝える。フーンといった様子
「わたし、映画も好きだけど、映画館の雰囲気はもっと好き」
週末、仕事終わりに連れられて古い映画をよく上映している渋谷の映画館へ行った。確かによい雰囲気だ。しかし何より、ソファの座り心地が素晴らしい (ちなみに私はソファというものが好きなので、これに関しては少々うるさい)
白黒の戦争映画。日本と中国で引き離される親子。当時の人々の生活と気持ちを淡々と、しかし愛情をもって捉えていく。たまに幻想的な描写もあって、私を揺さぶる。ふと右を見る。普段表情がほとんどなく、感情を察するのが難しい彼女の目に涙があった。涙に満たされた瞳は、なんて美しいのか。驚いている私の頬をツツツと何かが落ちていく感触。何かが解放されるような感覚が、その瞬間にあった

大寒波がやってきてクリスマスもまだだというのにマンション周辺の雪かきに見舞われた昨年の冬のはじめ、冷え性の彼女はやってられないと怒り心頭。体を温めたい、辛いものを食べに行こうと誘われた。どうせなら高級な中華、高級な四川料理が良いとのこと
そんなわけで店の予約を頼まれたが、手に入りやすい同じものをルーチンで食べる私にはよくわからない。しかし困ったときは金。そう、金が全てを解決してくれるのが現代資本主義社会。都内で最も値段が高い店を予約した
年も押し迫って忙しい。食事できるか心配だったが、なんとか諸事を終わらせ待ち合わせ。彼女は分厚いエンジのダウンコートを着て暖かそうだ。私も分厚い紺色のダウンコートを着て、ふたりそろって歩いていると、布団がノコノコとそろって歩いているように見えていたりして…とおかしかった
店内に入る。その布団のようなダウンコートを脱ぐと、彼女はぴったりとしたシルエットのチャイナドレスを着ていた
「コレガチャイナノドレスコードヨ」
なんて言ってツンとしている。そこで私は彼女の胸の大きさを知った。なんということだ…(ちなみに私は胸の大きい人が好きである。これは絶対に譲りたくない)
非常に重要な事実がわかったわけだが、呼吸を整えて、私はひとまずメニューを見た。中華で辛いものと言えば、麻婆豆腐しか知らない。私はこれを大皿で注文しようと決めた。あとはわからないので彼女に任せた
色とりどりの料理が次々に運ばれてくる。赤い品々が多い中、彼女はまず、熱そうな白米を手元に持ってくる。次に真っ赤な麻婆豆腐をすくって、白米の上にかける。ハフハフさせながら、ゆっくりゆっくり噛みしめながら食べる
私も同じようにして食べてみる。すぐに汗をかいてしまう唐辛子の辛みと、舌がしびれるような山椒の辛みが襲ってくる。同時に、豆腐、ひき肉、白米が麻婆のあんと一緒になって私を刺激する。もっと欲しい。他のもどんどん持って来い!
汗をかいて、私はどんどん食べた。彼女もどんどん食べる。彼女は、麻婆のあんをドレスコードの胸のあたりに飛ばしていたが、私は指摘しなかった。汚れや胸の大きさについて述べるよりも、ふたりでどんどん色々食べて、芯から熱くなりたかった

桜はとうに散って夏に向け暑さが増していた今年の春の終わり、私たちは江ノ島にいた。ゴールデンウィークを過ぎたといっても関東屈指の観光地に人手が絶えることはない。橋の上の潮風は強かったが、そんなものに挫けることなく、人々は楽しそうに島へ向かって歩いていた。修学旅行生、中国からの団体旅行者、カップル、仲の良さそうなご老人たち…。私たちもその中に含まれるわけだが、手をつないだり抱き着いたり云々、なんてことをする勇気はお互いになかった。しかし、勇気のあるご老人たちが増えたものだ…
そんなものには我関せず、という様子で彼女は神社までの道で目につく食べ物を次々に買って食べ写真を撮っていく。たこせんべい、アイス、たい焼き、生しらすと節操がない。たまに私に写真を頼まれる。なぜ撮るのかと訊くと
「インスタに載せたいから」
そんなことするタイプだったのか。知り合って一年近くたつのに知らなかったよ。本当に知らないことばかりで、毎日驚かされる
江島神社は恋愛の神様らしいが、本当に効果があるのだろうか。よくわからないが、彼女が熱心に説くので何かしらのものがあるのだろう。私は真摯にお祈りした(ちなみに私は無私論者なので、本当はどうでもよい。ただ、祈るならちゃんとやりたいのだ)
人の多さに疲れて、帰りは横道に入った。島で働く方が主に使う道のようで、長く使われているバイクや自転車がポツポツと並んでいる。人通りは少ない。店はない。しかし木陰がたくさんあって涼しく、海も良く見えた。歩いて汗をかいていたので、強い潮風が心地よかった。少し立ち止まって海を眺めていると、彼女が手を握ってきた。薄い手、長い指。少しくらい暑くなっても、冷え性の彼女の手は冷たい。しかし、じんわりと手汗をかいているのがわかる。私は歩みをゆるめたかったし、手を離したくなかった

夢はよくわからない。突然始まったり、なんの脈略もなく話が終わったり、また復活したり。だが、大体においてそのわからなさは楽しい。思わぬ人物も登場する。意識していなかった人物が自身の無意識に何らかの影響を与えていた事実に、目が覚めた直後にびっくりする。夢は、見ている最中は忘れるはずないと思う。しかし、目が覚めると一瞬で忘れてしまう。そして、なかなか思い出せない
今、私の目の前に彼女はいる。夢というのは案外くっきり見えるものなのだと、私はこの一年で知った。しかし、これは幻覚の最中。酔っぱらっている最中。魔法にかかっている最中
少し目を離す。振り返るともういないのではないかと思う。だってこんなの夢だろう。そんなものだろうと思い、いつも振り返る
いる。いつもいる。今も私の目の前に彼女はいる

湯冷ましと酔い覚ましに、旅館の庭に散歩に出た
お盆の幽霊などとうにいない夏の終わり。歩いてるとすぐ冷える、と冷え性の彼女はエンジの茶羽織を着て出た。私も紺色の茶羽織を着て出た
屋根からの雫が、百日紅の上にタンタンタンと変わらず落ちている。タンタンタン、タンタンタン。空を見上げる。天の川がよく見える。流れ星が何度も何度も視界に現れる
「星がきれいだね」
「うん。きれいだね」
流れ星が何度も何度も視界に現れる。何度も何度も

彗星よ、何秒も何秒も私の目の前に現れ続けるあなたは、いつまで私の願いを叶え続けてくれますか

彗星よ、永遠を願っても、良いですか

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