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記憶のカイダン 9歳〜10歳

ー9歳ー

◆阪神淡路大震災◆
1月17日。5時46分
「うわ、またトラック突っ込んできたんちゃうか…」

当時3年生だった私はあまりの揺れに驚いて起きた。
実家の前の通りは車なんて入れる隙間ない路地。
数か月前、なぜかトラックがその前を無理やり通って家の玄関やら窓やらが破壊されるという事件があった。
その振動が身体に残っていた。だからそれだと思った。
隣で寝ていた姉に
「動いたらアカン、おさまるまでじっとしとき!」と言われ、ああ違う。
地震や。数十秒間は生きた心地がしなかった。
経験したことのないような揺れに心臓が身体から飛び出るんじゃないかという程バクバクしていた。
私の昔の実家。おそろしくボロかった。だから壊れると思った。
屋根裏ではしょっちゅうネズミやらいたちがリレーしてる。
「あ、今の足音はネズミやな」
「あ、これはいたちや!」
と足音の響きで当てられるくらいにぎやかな屋根裏。
そして家族みんなで一斉に笑うと家が揺れる。
冬にはどこからともなく隙間風。
同級生の男の子と帰り「新田の家寄ってから帰るわー」って回り道をされ、
「お、お前の家ここ‥( ^ω^)汗・・・?」って若干引き気味の声で言われたのを今でも根に持っている。
ねずみと共存。家でも風と共に。ゆらゆらドキドキスリリングな毎日、雨漏り?当たり前よ。
地震で和式トイレは水道が止まってしまい使えなくなったが幸い大きな被害はなかった。
でも揺れの恐怖とショックで学校に行くも一日吐き気が収まらない。
被害が甚大だった西宮在住の担任の先生はたくさんの水をタンクにいれて帰って行った。テレビに映る兵庫県の映像はほんとに今起こっている出来事なのか。高速道路がぽきっと折れている。一面火の海。住宅がたくさん倒壊している。
当時の私はただただ、とてもとても怖かった。
そしていつ余震がくるのかおびえる日々だった。
その後新田家は新居へ引っ越しする運びとなるのだが、古家を買ってくれた5人家族の近藤さん(仮名)はなんとその家にベランダを増設していた。恐れをしらない近藤さんに乾杯である。

◆恐怖のおばあちゃん◆
私の父方のおばあちゃん。苦手だった。いや、はっきり言って嫌いだった。孫の目からみても意地悪く母に接するのをみていたからだ。
昔、切迫早産で母が入院したことにより当時一人っ子だった姉を長い間見てくれていた。久しぶりに娘に会ったら虫歯だらけになってたらしい。飴をあげる文化といえどもあげすぎである。
いつも突撃訪問したかと思えばお茶やお菓子をいれろとでんっと座って待つおばあちゃん。
前述した家は当たり前のようにインターホンがない。来るときはいつも「ドンドンっ」と割れんばかりにドアをたたいて来た合図をする祖母。
ドンドンっにびくっとする母をよく見ていた。
時には私たち三姉妹も一緒になって居留守を使ったりもした。
そして母方の従姉が家に遊びに来るときは「玄関のドアはリズミカルに、ドンっドドドンって鳴らしてなー」と叩くリズムを指定したりもした。
この際打ち明けるが、父を含め父方の親族とは全く合わないのだ。
父との思い出という思い出がなく、少し寂しい気持ちもするが、その分母や姉や母方の親族からは愛情をふんだんにもらったので気持ちを相殺している。

◆角刈りワンピース少女◆
ピアノの発表会の1週間前である。
いとこの伯母にパーマ屋に連れていかれた。髪を切られた。
角刈りにされた。
私天然パーマ。
くるくるの頭に角刈り。
見るも無残である。
3年生といえども乙女心はしっかりある私。
母は発表会のためにきれいな水色のワンピースを作ってくれていた。
角刈りにワンピース。
この世の終わりだと思った。
伯母の家で三角座りして膝におでこを置いてしくしく泣いた。
「かわいいでっ!大丈夫や安心し!」
伯母の声が笑いを必死で抑えているのか震えている。
大丈夫・安心の言葉をこんなに信用ならないと思ったことは初めてだった。
失意のどん底で家に帰った。
案の定、母・姉、大爆笑。涙流して大爆笑。
3年生のピアノの発表会のビデオは実家の奥底に眠っている
(怖いもの見たさで見たくなってきた)

‐------つづく--------

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