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ヒガンバナ

作:文芸集団おにがしま

 セカイが眠る病室には、いつも柔らかい光が差し込んでいる。その部屋は広くてゆったりとしていて日当たりがよく、ぽかぽかしている。その部屋はまるでセカイそのものだった。寒いギャグだと失笑されるかもしれないけれど、セカイの世界だった。
 セカイは二つ年上の近所の「お兄ちゃん」だ。小学生のころはソラもダイチも一緒に三人で毎日遊んでいた。セカイの体調が悪くなり入院することになったこと、ソラは私立の女子校、ダイチは近所の公立中学にそれぞれ入学したことが重なり、ここ1年ほど会う頻度が減っている。そのため毎週水曜日の放課後は、駅前でソラと待ち合わせてセカイのお見舞いに行くことにしている。それがいつからかダイチのささやかな楽しみであると同時に、胸苦しい憂鬱の入り混じる特別な時間になっていた。

 学校を出て最寄りの駅に向かう。ダイチはいつも約束の16時になる15分前には到着する。たった15分の待ち時間だが、毎度帰りたくなる。自分のような根暗な人間が、重い病気を抱えたセカイのところにお見舞いに行ってもいいのだろうか。病は気から。自分がセカイの病気を悪化させてしまうのではないか。学校ではいつも端っこで黙って俯いてノートに絵を描いていて友達だって一人もできない自分は、酸素を消費し二酸化炭素を吐き出す生きる粗大ゴミにすぎない。いつも明るい顔して病室で迎えてくれるセカイは、本当は自分なんかと会いたくないんじゃないか。自分は邪魔なんじゃないか。そうだ、邪魔に決まってる。

「僕なんていらないだろ?」
 そう小さく呟き、駅前を立ち去ろうと一歩足を踏み出した。
「誰が『棒アイスなんていらない』って?」
 俯いていた顔をあげると、そこには悪戯な笑みを浮かべたソラが立っていた。そして、いつものようにダイチを引きずるようにして病院へと向かった。その間、ソラのおしゃべりは止まることを知らなかった。

 ソラはいろんな顔をする。調理実習で砂糖と塩を間違えてバナナケーキがしょっぱかったことを大笑いしながら話していると思えば、次の瞬間から部活の先輩に理不尽なことを押し付けられた話をして大げさに怒りに狂い泣きそうになっている。ソラが忙しいのは病室でも同じことなのだが、ひとつだけ違うことがある。病室でのソラは面白い話しかしない。どんなに自分に起こった嫌なことでも、病室では面白おかしい話に変えてしまう。そんな気遣いと才能にダイチはいつも感心していた。

 セカイにとって手の届く世界はいつだって病院の一番見晴らしのいい部屋の窓から見える大地と空、そして毎週水曜の西日が差し込む時間にドアから入ってくるダイチとソラだった。

「せーかーいっ。来たよ!」
 元気な声で勢いよくドアを開けるソラ。病室のスライド式ドアは絶対に反発して跳ね返って、そのあとから入ってくるダイチにぶつかる。
「いてっ」と小さな声でダイチは呟いた。

「いつものことじゃん」とソラは舌を出して「ごめんごめん」と謝った。

 そして「あら、ダイチくんソラちゃんいらっしゃい。いつもありがとね。ゆっくりしていってね」とセカイの母親が温かく出迎えてくれる。
「あ、そうだ。ケーキがあるのよ。ダイチくんもソラちゃんも、食べていって。持ってくるから」
 鼻歌交じりにセカイの母親が病室を出ていくと、ダイチとソラはセカイの元へ駆け寄った。毎週恒例のことだった。

 セカイを囲み、みんなでケーキを食べた。ホイップクリームを鼻の頭につけながら夢中にケーキをほおばるソラの姿はその場にいる全員を笑わせてる。そんなソラは、終始笑顔だ。そもそもソラは笑っていないときがないのではないか、と思うほど笑顔を見せる。いや、実際笑っていないときなどない。笑ったときに右の頬に出来るえくぼが特徴的だ。その明るい笑顔がいつの間にか伝染して、うつむきがちになっていたダイチや、病気に苦しんでいるセカイまでもが笑顔になるのだ。そんな力をソラは持っていた。そんなソラにダイチもセカイも救われていた。

 セカイにとって、水曜日は特別な日であった。たまにお見舞いに来てくれる人はいたが、入院期間が長引くにつれ、定期的に来てくれる人の数は減り、遂には二人のみとなった。仕方のないことだ、とセカイは自分に言い聞かせる。水曜日の二人が帰った後は凄く寂しくて涙が出そうになることもある。でもそんなときは次の水曜日を思い浮かべて、三人の世界を想像して自分に活を入れる。二人が毎週置き土産にくれる笑いを暗色で塗り込めるわけにはいかない。

 病院の帰り道、日が沈んだ後もソラは明るかった。
「今日も楽しかったね~」と、ダイチの左斜め前を歩いていたソラはひらりとスカートを風にたなびかせながら振り向く。丁度街頭に照らされた右頬のえくぼはいつもよりさらに美しくて、時が止まってほしいとさえも思った。

 ソラとダイチが帰った後、セカイは二人が話してくれたことを思い出しながら微笑んでいた。
 そこに、男が入ってきた。
「やあ、セカイ君」
「ウミ先生。どうしたんですか?」
「ちょっと前に君の病室を通りかかったら随分楽しそうで、気になっただけさ」
「そうですか。今日も楽しかったです。早く次の水曜日が来ないかな♪」
「そうか。調子悪くなったらすぐにナースコール押すんだぞ。じゃあ」

 そう言って、ウミと呼ばれた白衣を着た男は病室を出た。ウミはセカイの担当医師だった。

 ダイチとソラ。ウミにとって、彼らは微かな希望だった。今のセカイは、いつどうなってもおかしくない。そんなセカイが唯一、水曜日だけは決まって症状が安定する。「この子が一回でも多くの水曜日を迎えられますように」ウミは柄にもなく神に祈っていた。

 セカイの病室を出て数分たった後、ウミの電話が鳴った。ディスプレイは、アメリカの病院に研修に行っている同僚の名を告げていた。
「はい、もしもし」
「もしもし。今、だいじょうぶか」
「どうした? アメリカからだと電話代がとんでもないことになるんじゃなかったのか」
「いや、そんな冗談言ってる場合じゃないんだ」
「?」
「確かおまえの担当している子、セカイ君だったか。彼の病気のことなんだが……」
 その瞬間、背筋がひんやりした。
「こっちで新しいことがわかった。それは.....……」

 ソラとダイチは帰り道、たまたま見つけたコンビニでアイスを買っていた。
「そうだ。ねえダイチ、ジャンケンして......」
「いやだ」
「えー、なんでよー」
「どうせ、負けた方が買うとかいうでしょ」
「ちぇー」
 それからソラはアイスコーナーの隣のお菓子に目を輝やかせ、ダイチにまた冗談めかしてねだり始めた。

 ウィーン

 コンビニのドアが開いたと同時に、一人の男が素早く二人の前に現れた。
 マツイだった。彼は、小学校時代のソラとダイチの担任だった人物だ。
「久しぶり、ダイチ、ソラ。奇遇だな、こんなところで」
 先ほどまで嬉々としてはしゃいでいた二人は、マツイに声を掛けられ、ただ茫然と彼のことを見つめることしかできなくなっていた。マツイは世間一般でいう「爽やかな笑顔」を浮かべながら、ソラが手に持っていたアイスとお菓子を自分のかごに入れると、二人が反応するよりも前にレジに向かう。二人の体がようやく動き出したのは、マツイが店員からレジ袋に入ったアイスとお菓子を受け取ったときだった。
 外で話そう、というように首を動かしたマツイにつき従うように、二人は商品棚をすり抜けてコンビニの外に出た。さっきまで見えていた満月が分厚い雲に覆われ、ソラの表情までも曇らせていた。こんなソラを見たのはいつぶりだろう。ダイチの胸に、もやもやとした薄煙が立ち上った。
「ごめんな、急に。いやー、偶然二人を見かけたから、つい声掛けたくなってさ」
 そう言いながらマツイは、レジ袋からアイスを取り出して、ソラとダイチに手渡した。
「いえ……本当に久しぶり……ですよね? 卒業以来ですか?」
「そうなるか。二人ともでかくなって、もう中二? 早いなー」
「……先生はまだ三小で先生を……?」
「いや、今は隣町の小学校でな」
 ソラの口調はいつもとあまり変わらない。でも、ダイチには、ソラが無理しているのが手に取るようにわかった。笑っているが、表情は妙に硬いし、右頬にはえくぼの痕跡さえない。声もほんの少しだけ震えている。ずっと一緒にいるダイチだからこそわかるほんの小さな変化だったが、ダイチはどうしても気になってしまい、マツイの話など少しも耳に入らなかった。

 マツイは、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出すと、ライターで火をつけた。彼が吐き出した煙が、真っ黒な空に昇っていく。その煙は黒い空と混じって、消えた。
「そういやー二人とも、セカイのこと聞いた?」
 マツイの口から、予想外の言葉が飛び出し、動揺を隠せないソラと、今にも泣きそうなダイチを横目に、マツイは不敵な笑みを浮かべる。コンビニの明かりに照らされたマツイの横顔は笑顔の仮面をつけているようで、ソラは小さく身震いした。

「二人、セカイと仲良かったでしょ」
 マツイの質問にダイチが小さく頷くと、ソラは不機嫌そうな顔をした。幼い頃から慕っているセカイの話をマツイにされたくないらしい。それもそうだ。マツイは、二人にとって苦い思い出を呼び起こしてしまう人物だったから。いやでも脳裏にちらつくあの頃の記憶が、ソラを深い闇に突き落とす。マツイに話かけられたその瞬間からソラにとっての一週間で一番の楽い日が、悪夢へと姿を変えた。

 この無能教師の顔を見るだけで思い出される。
「やめて、痛い。かえしてぼくの」
 机の上に書かれた油性マジックの大きな文字。片足の上履き。ボロボロになった教科書を抱きかかえ、教室の隅で泣いていたダイチの途方に暮れた顔。教室の外からそんなダイチをただ見ていることしかできなかった。悔しくて、悔しくて。いつの間にか、声を殺して泣いていた。

 「先生、ダイチを助けてください」
 何とかしなきゃ。どうにかしなくちゃ。ソラは、いてもたってもいられなかった。勇気をふり絞り開けた職員室の大きなドアはいつもより重かった。

「すまないが、先生は止めない。ソラ、イジメは必要だ。ダイチはダイチで役に立っている。クラスで一人のけ者となる存在がいるだけでクラスの団結力が違うんだ。先生はどこよりも良いクラスを持ちたいんだ。そうしたら教師として認められる。ダイチは俺のクラスのためにイジメられる必要があるんだ。ソラは頭がいいから、分かるよな?」
 耳元で小さく放たれた早口の言葉は、氷のような職員室に消え入った。利己的教師が去った後も、ソラの足は、床に張り付けられたように動かなかった。

 あの時、ソラは誓ったのだ。誰の悲しい顔も見たくない。みんなが笑顔で居られるように、いつだってまずは自分が笑っていようと。ふとソラは今自分がどんな顔をしているのか心配になった。こんなやつのせいで自分を崩してはいけない。ましてやダイチの隣で。

 袋を開けたまま口をつけていないアイスは、棒を伝って溶け始めている。マツイは、くわえていた煙草を携帯灰皿に押しつぶし、二本目の煙草に火をつけた。しばらく続いた沈黙は、ソラの深いため息で壊された。
「セカイ、どうかしたんですか?」
 ソラのやや投げやりな質問に、マツイは満足そうに頷く。たちが悪いのはあいかわらずだ。きっと、どちらかが質問するのを待っていたに違いない。マツイは、耳にかかるか、かからないかくらいの短い髪をかきあげて、ソラの目をまっすぐ見た。
「セカイ、アメリカの病院に転院するってさ」
「え」
 時の流れが止まったように、ダイチもソラも動かなかった。
「あれ、セカイから聞いてなかったのか、ごめんごめん」と、わざとらしく詫びるマツイの姿も、二人の目には入るはずがない。アイスの袋を握りしめたソラは、何も言わずに走り出した。放心状態のダイチは、そんなソラを呼び戻すことも、追いかけることもできない。二人の反応を見たマツイはほくそ笑み、追い打ちをかけるようにダイチに言い放った。
「アメリカにいる兄貴がウミさんに余計な事言ったみたいだぞ。新薬の開発が進んで、アメリカで臨床試験の段階に入ったから、もしかしたらセカイも助かるかもって。まあ、よかったよな、これ以上苦しまなくて済む」
 右から左に流れていくようなマツイの説明に、ダイチは途方に暮れていた。
 セカイが遠くに行ってしまう。どうしよう、もう会えなくなるかもしれない。でも、アメリカに行ったらセカイは助かる。そうだよ、邪魔者の自分といるより、セカイの病状はよくなるかもしれないから、だから……もう三人では……会えない……。
 ダイチの心を、巨大な氷河が覆いつくした。

******

揺らぐカーテンの隙間から、満月のか細い光は入り込んだ。寝静まった病院はとても静かで、セカイはいつも寂しくなる。たまにどうしようもなく涙が出る日、セカイは、布団にもぐったまま、声を殺して泣いていた。

「セカイ、入るよ」
優しい声が、ドアの方から聞こえる。その声はセカイの空っぽの心に響いて、また涙がこぼれそうになる。こんな姿、誰かに見られるわけにはいかない。声の主に気づかれる前に、セカイは布団の中で涙を拭った。
「面会時間、とっくに過ぎてるよ」
そう言いながらセカイがドアの方に向いたとき、セカイの顔には作り慣れた笑顔が浮かんでいた。部屋に男は、音を立てないようにドアを閉めると、セカイのベッドの横に腰を下ろした。
「ダイチとソラに会いに行ってくれた?」
「ああ、ちゃんと伝えた」
「よかった」
大きく深呼吸をすると、セカイは満足気に微笑んだ。
「急に連絡して、挙句の果てにこんな嫌な役、任せちゃってごめんね。あの時もそう。先生には嫌われ役を頼んでばっかり。きっとダイチとソラにも一生恨まれる」
「先生」と呼ばれた男は、なんの表情を浮かべずに、ただ小さく首を振った。
「でも、ありがとう。これで僕も安心していける」
「なあ、セカイ。本当にこれでいいのか?」
「いいんだよ、これで。僕も人の役に立てるし、ダイチとソラも傷つかなくて済む」
「…………そうか」
しばらく、セカイに繋がる医療機器の音だけが、広い部屋に響いていた。
「セカイ。やっぱり、考え直したほ………おい、大丈夫か」
突然せき込みだしたセカイに、男の言葉はかき消される。首元を締め付けるように抑えながらもがいたセカイは、ベッドにかけられていた酸素マスクを手に取り、口を覆った。数回呼吸をすると、安定してくる。
「大丈夫。先生、心配しないで。ただの発作だから」
男に支えられながら、セカイは体を起こした。もがいたせいで乱れた髪をかき上げる。男の目をまっすぐと見つめると、柔らかく微笑んだ。月の光に照らされた、寂しげな笑みだった。
「僕さ、嬉しいんだよね。こんな体になった僕でも、誰かの役に立てるんだから。だって、誰かの命を救えるかもしれないんだよ?こんなに名誉なことはないよ。入院してからずっと、このまま、何もせずに死んでいくものだと思ってたから」
「セカイ……」
「小学校の時さ、児童会長になって、先生と一緒に色々学校変えたじゃん。最初はただ、ダイチの事を救いたい一心だったんだ。ダイチ、注目浴びるの昔から苦手だから、いじめっ子を先生が成敗するっていう表面上の手助けじゃ本当の意味では救えない、学校から変えないとって。でもさ、いじめゼロ運動始めてから、どんどん学校が良くなって。僕が学校を変えたんだって思うと、めちゃくちゃ楽しかったんだよね」
「セカイ」
「うん、充実してた。人の役に立ってるっていう達成感があったからかな。あの時と同じ感じ? そうだ。それくらい嬉しい。やっぱり僕、誰かの役に立つの好きだなー」
「セカイ!」
男の鋭い声が、病室に響いた。早口で話していたセカイの声も、ピタリと止まる。
「無理すんな、怖いんだろ?」
「怖くなんかないよ、だって、僕のおかげでたくさんの人の命が救われるかもしれないんだ。僕の命と……」
「もういい、もういい」
 震える肩をマツイが抱きしめると、セカイは子供のように、声を上げて泣き出した。
「何もできなくて、ごめんな」
開けっ放しの窓から唐突に吹き込む乾いた初秋の夜風が、二人の頬をなでる。それはまるで、世界が別れを惜しんでいるかのようだった。

次の水曜日、セカイの病室は、もぬけの殻になっていた。

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