小さすぎる鮭

撮影で長野の宿に泊まった時のこと。

予算も潤沢ではなかったし、スタッフの宿は一泊5000円程の格安宿だった。

受付には背中に赤ちゃんをおぶった母さんが、子をあやしながら宿泊客を迎えていた。

朝食、典型的な日本の朝食とでもいうべきメニューだった。ご飯に味噌汁、納豆、卵焼き、お新香、細かく品数が並ぶ。たった5,000円でこの朝食が出せるのだから、経済とは一体どうやって回っているのかと思ってしまう。

だが、鮭が小さすぎる。

あまりにも小さい焼き鮭は乾いてカチカチだった。鮭のどの部分をどう切り取ればこんな小さな切り身が出来上がるのかと思うほど小さい。キーホルダーの飾りかと見紛うほどだ。

当然うまくない。

僕は悲しくなった。これでは鮭も浮かばれないだろう。

当然、僕は値段以上のサービスを求めるつもりはない。値段相応であると思う。むしろ朝食が付いていること自体が奇跡的な値段なのだ。だが、鮭が浮かばれない。

当時、僕は食のドキュメンタリーを作っていた。その中で僕はいろいろのことを学んだが、1つ、食材は丁寧に扱えば必ず美味いというものがあった。

鮭のごとき良き食材は、焼いて出せば、何をしなくとも美味いのである。

一万匹に一匹と言われる幻の時鮭を選ばずとも、海原雄山がごとき食通が志向を凝らさずとも、獲れた鮭を焼けばすごく美味いのである。

僕はこの小さすぎる鮭を見た時に、この社会の悲しすぎるシステムを発見して悲しくなってしまった。

僕らはどうやら、安くするため、また便利にするため、美味いものをわざと不味くしているようなのだ。

鮭は焼けばいいだけだ。けれど、一泊5,000円に定めたこのホテルでは、焼いて出すことすらできない。なにせ赤ちゃんをおぶりながらでないと受付もままならないのだ。焼いてる暇はない。そうすれば、どこかで焼いてくれねばならない。では、どこぞの工場でいっぺんに鮭を焼こうとなる。焼いた鮭はいつ食われるか分からないから当然冷凍にする。なんとか一泊五千円のホテルで鮭を出すために、人類の叡智を結集すると、不可能と思えた事業が可能になっていくのだが、いつのまにか鮭は小さくなっているのだ。

小学校の社会で学びそうな当たり前のことを、さも新しい発見かのように書いてしまったが、僕はこの事実が不思議でしょうがなくなってしまった。

不味くすれば安くなる
不味くすれば早くなる

見渡せばよくよく社会に蔓延っているこの世紀の発見は、悪魔の発見に思えてくる。

とにかく鮭が浮かばれないのだ。

でも制作費を減らすために、五千円の宿を選んだ僕には、残念ながらそれを嘆く資格がない。

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