ゲゲゲの謎を見てきました(感想)

ゲゲゲの謎を観てきました。
子どもを寝かしつけた後、奥さんにお願いしてそっとチャリを漕いでレイトショーに行きました。地方郊外金曜のレイトショーなのに客席は7割くらい埋まっています。聞くに違わぬ人気ぶりだと思いました。
 
自分は鬼太郎アニメ3期(ユメコちゃん)世代です。当時は北斗の拳や聖闘士星矢、ドラゴンボールなど男くさいバトルもの全盛期でした。戦いにあんまり身を乗り出せないうえに、長いストーリーが覚えられない自分にとっては鬼太郎のような一話完結ファンタジーはとても魅力的でした。それ以来の鬼太郎ファンです。
 
子ども時代に見ていたハートフルな3期、少年期に読んだダークな漫画版、そして子どもができてから一緒に見て、そのクオリティの高さに驚愕した大傑作の6期が特に記憶に残っています。今回の映画版は、基本的に最新作である6期に準拠した内容であり、かつ漫画版、そして全ての鬼太郎シリーズにつながる内容です。
 
まず、「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」は最高の劇場版ゲゲゲの鬼太郎です。とにかくめちゃめちゃ面白いです。未見の方は絶対見た方がいいです。6期を見ていない、そもそも鬼太郎を知らないという方でも平気ですが、さすがに鬼太郎と目玉の親父くらいは知っていた方がいいかも知れません。
 
自分は、半分くらいの映画を最後まで見ることが出来ません。とにかく集中力がなく、ワクワクを持続できないのです。その私が、最後までぶっ通しで観られただけではなく、終わることが寂しくてしばらく席を立てませんでした。映画に全く詳しくないのですが、全く飽きさせないテンポ、ダークかつ技巧を凝らした映像、子ども向けアニメながら深いテーマや残酷な描写など、とにかく攻めた内容だと感じました。子ども向け離れした残酷描写や悲劇的なストーリーも、鬼太郎の世界観だと違和感なく受け入れられてしまうことも凄いと思いました。
 
この辺まで思っていることは本当で、頭の中の90%くらいはやっぱり大傑作だと思います。しかし、やっぱり10%くらい疑問が無くもない。そんな映画でした。自分のメモのためにもその辺も書いてみたいと思いますが、繰り返しますがこの映画は傑作です。
 
疑問のほぼ全ては「暴力」についてです。暴力描写がエグすぎる、とかそういうことではなく、「ゲゲゲの謎」を一貫する暴力への態度ってなんでしたっけ?と迷う場面が多いです。この映画は全編を通して、「暴力vs人間性」の対立を描いているのだと思いました。人間は戦争や財産に人間性を打ち捨て、そんな中妖怪たちがむしろ人間性を失わず、人間に「人間性を失うな」と訴え続けるというアングルは鬼太郎全てに通じるものです。本作もそうだと思いました。
 
中盤からは、戦争、全体主義、因習、家父長制といった暴力とそれに翻弄される人間たちがぞろぞろ現れてきます。そこにあるのは、人間が起こした暴力は別の誰かの人間性を奪い、また新しい暴力を生む。その連鎖はそう簡単に止められないという恐ろしい現実で、それがアニメの中の話ではなく、現実にそこらへんに転がっているありふれたことなんだ、と気付くことはやはりPG12指定は間違いなかったのかなと思いました。テレビアニメ版6期は考えさせられる内容が多かったのですが、ここまで人間の深い業を描いた回は無かったように思います。
 
6期で自分が記憶に残っているのは、名作のさら小僧の回で、虚栄心に塗れたお笑い芸人が、いくら鬼太郎に忠告されても、破滅が待っていると分かっていても、それでも他者からの評価への渇望を止められずにタブーを犯してしまう、その最期を鬼太郎はじっと見ているという回です。
 
鬼太郎の、こういう「限度付きで人間の味方をする時もあるし、しないことも多い。」という態度に私はいつもしびれるのです。そして、それこそが「人間性」だと思うのです。
 
「ゲゲゲの謎」では、中盤から物語全体を覆う暴力の正体が露わになり、その暴力がこちら側に剥いた瞬間、ゲゲ郎(主人公)はすぐに応酬してしまうのです。映画館の大きなスクリーンと充実した音響を生かしたアルトラヴァイオレンスです。正直、このアクションシーンはめちゃめちゃかっこいいです。見ている瞬間は真剣に手に汗握り、ゲゲ郎がピンチになった瞬間は客席から声が洩れました。ゲゲ郎が何者なのか、映画全体のストーリーが明らかになる、間違いなく大きな見せ場です。
 
しかし、ちょっと思い出して、6期ってこんなに戦ってましたっけ。もちろんバトルシーンはたくさんありましたが、こんなにも「敵の死」を直球で狙ったバトルシーンはありましたっけ。自分としては、「敵のこと殺そうとしてない?」と思った瞬間に高まった何かが目減りするのを感じました。もちろん、ゲゲ郎には敵を殺そうと思う大きな理由があるのですが、「そこまでされたら殺さないと気が済まないよね。ゲゲ郎を応援しよう。」と思うこと自体が我々人間の理屈のような気がして、ゲゲ郎側vs敵の殺し合いが激しくなるにつれ、自分の見たかった映画ではないかもしれないという思いが強くなりました。
 
戦争や全体主義へのアンチは、水木しげる先生も繰り返し訴えていたテーマです。しかし、劇中でゲゲ郎が向かうそれへの対抗策が「敵の死」一本やりでいいのか疑問でした。前半では会社員水木に対して達観して、大切な人から教わった「愛」について説いていたゲゲ郎が後半には、敵の永遠の苦しみを願っているのも、結局は暴力は暴力を生むというさらに俯瞰した残酷なストーリーなのでしょうか。
 
個人的には、作品内で、例えば会社員水木が上官に受けた理不尽な暴力を表現するときのように「いかにも理不尽に見える撮り方」をされることでとてつもなく冷めるのです。今から暴力を振るう人間に、事前に卑怯さや醜さを分かりやすく演出しておいて、その上で振り下ろされた鉄拳は悪だという演出です。その裏のメッセージには、暴力の主体を観客が気に食うか気に食わないかという演出次第の危うさがあります。暴力は暴力で、どういう理由があっても悪だという話ではエンタメになりにくいとは思うのですが。
 
鬼太郎はそれこそ「限度付きで人間の味方をする時もあるし、しないことも多い。」レベルの肩の力の抜け方で、決して敵に対して強い憎しみをぶつけたり、ましてや殺そうとしたりはしなかったように思うところが、私が鬼太郎を好きな理由でした。ものすごく長々と書いてしまいましたが、これでは、自分が子どものころハマれなかった北斗の拳や聖闘士星矢、ドラゴンボールと同じじゃないか?と思ったのです。映画の後半には、ゲゲ郎はどうやってラスボスに勝つのか?という点にストーリーが収束しそうなのに気付くと、さーっと興味が失せていって、いつもの「帰りたい」モードに入ってしまったのですが、ラスボスに勝った後のシークエンスでは一転いつもの鬼太郎に戻りめちゃめちゃ楽しめました。
 
いま、やっぱり全体を思い返しても、敵と味方がカッチリ分かれすぎている、そして敵側は殺されても足りないくらい悪い存在に描きすぎ、という点は(「鬼太郎らしくない!」とかそういう自分の思い入れを置いておいても)てどうなのかなあ、と思いました。
 
最序盤で、もう一人の主人公会社員水木が電車の車両内で、咳き込む子どもがいるのに一切構わずタバコを吸い始めるシーンがありました。私の見た感じでは、そのシーンに悪のレッテルを貼るような演出は無かったように思います。そこは、その主体には感知することすらできない悪を、誰もが無意識に行いながら生きているんだというメッセージだと思いました。

自分も子どものころ、電車内でも教室でも映画館でも誰もがタバコを吸っていた時代を過ごしていますから、そういう物だったなあと懐かしく思いました。そういう、主観的な善の危うさを描いているシーンもあったと思うのですが、後半に向かうにつれてゲゲ郎が悪を抹殺していくこと一辺倒になっていったとき、殺すことで我々が得るものは疑いようもないものなのかなと思いました。

 
ラスボスは醜い私利私欲の塊で、擁護のしようがない悪ですし、私も恐ろしいと思いました。しかし、昭和30年代に電車の中でタバコを吸う人がそれを一点の曇りもなく悪ではないと思っているように、ラスボスにとっては、と思ったりもしました。その、私たち人間が迷って答えの出ない悪へと持つべき態度を、鬼太郎ならどうするかなあと思いました。ただ、この映画の当時は、ゲゲ郎にも相手を殺すしかなかった。そう思うことで自分は納得しています。
 
繰り返しますがゲゲゲの謎はめちゃめちゃ面白いです。

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