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パートナーが欲しいのか分からない



アロマンティック・アセクシャルを自認し、SNSなどで様々な意見を目にして交流を図るようになって1年。
今年はコロナの影響もあって新しい人間関係が増えることもなく、一人でいることを否定されない平穏なコミュニティで過ごせているなあと実感。
されど世間はクリスマスだとか冬の人恋しさだとか、そこら中でカップルをお見かけするような気がして、「暖を取れそう」という理由で羨ましく思ったり(一瞬)。それでふと思い出した、「パートナー」について考えてみる。



そもそもパートナーってなんだ 


幼い頃から未来予想図にはいつも自分一人だった。憧れの職業に就くわたしも好きな世界を旅するわたしも、想像する姿はみーんな一人。それが当然だと思っていたので「恋人がほしい」「誰かと暮らしたい」「ずっと一緒にいたい」「結婚したい」と考えたことすらなかった。

「ずっと一緒にいる誰か」のイメージが恋愛・性愛関係しか想像できなかった頃のわたしは、自分がパートナーを欲しないのは自分のセクシャリティやパーソナリティによるものだと判断していたけど、初めて自分以外の(aro/ace)当事者の意見に触れたとき、パートナー関係を希望する人が少なからずいる状況に驚いた。恋をしなくとも性愛対象でなくとも、特定の誰かと共に過ごしたいと考えている人がたくさんいる。それが「パートナー」というもの。
みんなが口をそろえて言うけど、その内実はとても複雑で多種多様な契約を含んでいるように思う。


A 恋愛感情により互いを必要とする関係性。
B 恋愛感情以外の信頼関係のもとに互いを必要とする関係性。
C 何らかの利害関係の一致により互いを必要とする関係性。
 ①1:1/多数コミュニティの場合がある。
 ②性行為を伴う/伴わない場合がある。
 ③同居を伴う/伴わない場合がある。
 ④法律婚を伴う/伴わない場合がある。

分からないなりに考えてみて、彼らの欲しているものってこんな感じかなあと予想。
A~Cの関係性のうえで、それぞれ①~④の選択肢がある感じ。
「A(もしくはA・B複合)‐①1:1②性行為を伴う③同居を伴う④法律婚を伴う(ことを望む)」が今ある、いわゆる「恋人」のパブリックイメージ(イメージ上での多数派?)。アロマンティックの人ではBかCで①~④は人それぞれ、アセクシャルの人ではA~BとたまにCで②が性行為を伴わない になる、かなあ。スキゾイド界隈ではCを求める声が多く見られた感覚がある。


ひとまずパートナーが欲しいという気持ちは、最低ラインとして「一人ではない状態になりたい」と同義なはず。(物理的に会わなくても精神的に1人でない等)
自分では補えない何かを他人に期待している状態。友人や(今いる)親族や知人の関係性のままでは埋められない“何か”を「パートナー」というカテゴリに求めている。




わたしはパートナーが欲しいのか?


普通に考えたら多分「欲してない」。8割5分くらいの状況で、一人で過ごすことに満たされている。
実際に10年近く一人で過ごしていても、精神的にも肉体的にも全く不自由を感じていない。たまに友人と会って家族と連絡を取って、それ以外の日々は1人で趣味に忙しくて楽しい。
ただ残りの1割5分くらい、ごくまれに「ここに他人がいたらなあ」と思う瞬間がある。その感情があるからわたしは「パートナーいりません」と自信を持って言い切ることが出来ないでいる。

具体的にいつ感じるかというと、
・おかず作りすぎた、買いだめ食材が腐りそう
・晩酌相手が欲しい
・体調不良で買い出しに行けない
・保険や貯蓄について忖度なしの意見をくれる相談相手が欲しい
・不在時の荷物受取、役所手続
・女一人暮らしへの不安(防犯)
・背中の毛が剃りたい
・絵の資料を撮りたい


う~ん…。さっきの分類に従うと、 だいたいが③同居もしくは近隣コミュニティへの所属によって解決しそうだな。②性行為については欲求なし、④は金銭的補助を受けられるかつ連帯保証人的な奴になるデメリットが無ければするかも、くらい。未婚者が受ける否定的な視線や差別についてはその構造自体にクソくらえと思ってるので偽装結婚には興味がない。
あと前提としてA恋愛感情による関係性もまずないのでB信頼関係かC利害関係の一致によるもので。
…この項目だけ見ると「近所に友人住んでたらよくない?」という結論になりそう。



特別な存在であるという明確な約束


けれど友人とパートナーとのいちばんの違いがそこにあると思う。友人、知人とのコミュニケーションで一時的にこの欲求を埋められたとして、彼らは変わって遠くへ行ってしまう。それこそパートナーが出来たとか、子供が生まれたとかで「親」や「恋人」というラベルが増えていって優先順位が変わっていき、わたしから離れていく。

パートナーという関係になる利点は、変わらないことじゃないか。
自分(またはコミュニティ)を一番に扱い、ずっとあなたを私にとっての特別にしますという契約。
性愛、愛の条件に関わらず、変わらずそば(物理的、精神的)にいる保証のある人、(完全はあり得ないけど)より確実な約束を交わした他人。明確な始まりと終わりがある関係。あなたとわたしは他とは異なる特別な関係だ、と同意を得た関係。互いに認め合っていると言葉で表す、「終わり」と言うまでの半永久的な契約。それがパートナーであるということ。約束。
はじめに挙げたAやら①やら関係性の形は結果でしかなくて、根本は「曖昧な関係を”パートナー”という名称でくくり特別な責任感を持たせる」ことにあるのではないかとも思う。(わたしたち親友だよね☆みたいなやつ)

いままで離れていく友人たちに寂しい、と思っていたのは、わたしも彼らと“パートナー”と呼ばれる状態になりたかったということなのか?

違う、わたしはそうなりたいわけじゃない。
これはスキゾイド(もしくはスキゾタイパル)パーソナリティの影響だろうけど、精神的距離の近さ、継続は苦しみに変わるから深い人間関係はいらない。複数のコミュニティに片足を突っ込むだけでどっちつかずの人でいたい。

それなのに、約束を交わさなければ相手は変わっていってしまうのに、こちらからは何も与えずに相手には変わらないままでいてほしいと求めている傲慢さ。(なんだかアイドルとファンみたいだ)わたしは好きで変わらないのに、相手にも同じを求めている。
結婚や出産や仕事だけが人生の喜びではないと理解しているはずなのに、目に見えて持物が増えていく彼らに、わたしだけ取り残されるように感じる。わたしは現状に満足していないのか?



わたしは他人に何を求めてる?


いろいろ考えてみて、現状わたしがパートナーを求めているのかは分からない。けどたまに感じるあの人恋しさはパートナーによって解消されるものではない、というのは分かった。
経験上ひとつのものや決まり事に縛られすぎると心のバランスを崩してしまうので、約束事や報告義務だらけのパートナーという仕組み自体が合ってないないんだと思う。複数人のコミュニティならかろうじて所属が可能かもしれない。
けど現時点でそれは強い熱意を持って取り組むほどのことではなくて、良い出会いがあれば関わろうかな、という程度のもの。それによって得られるものとコストが見合っていないから。

あともう一点の気付きは、わたしは行先が同じ人に隣を歩いていてほしい。友人たちが結婚出産で遠くへ行ってしまうのが寂しいのは、彼らに変わらないでいてほしいのではなくて、自分と同じだと思い込んでいた人が全く違う生き物だと知って驚いたのもある。ワガママだけど、わたしはわたしと同じような生き方をしている誰かの存在を感知できればそれで結構安心できるっぽい。誰かとパートナーになりたい・結婚したいのではなく、誰ともパートナーにならない・結婚しない仲間が欲しいだけ。

社会にはあまりにも自分と違う種類の人間が多すぎて、自分ではこれでいいと思ってるのにちょっとしたことで気持ちが揺らぎそうになるから、そんな時に「あの人がいる」と思える誰かがいるといい。1対全世界は疲れるから、味方じゃなくても「あの人も戦ってるんだな」と思える相手がどこかにいると分かってれば、それだけでいい気がする。

今の時代、こういったブログやSNSでマイノリティ同士の交流が図りやすくなったし、生きた情報にもアクセスしやすい。パートナー欲求と呼ぶにも満たないわたしの感情は、存外すでに満たされているようで、いい時代に生まれたなあと思う。精神交流の苦手な人間からしたら、画面を挟んだくらいがちょうどいいのかもしれない。

対面での人付き合いが削ぎ落とされた生活はしばらく続きそうだし、コミュニケーションが多様化していく中でわたしの他人との関わり方も変わってくるのかなあ。経過観察。



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