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愛せないから 愛さないで

一方的な好意の暴力性とそれを克服したい話






「恋」っていうパワーの凄さは、傍目に見ていて原動力として羨ましく思うことが多々ある。
「恋をした」から○kg痩せた、一緒にいたいから進路を変えた・仕事を変えた、趣味じゃない本を読んだ、彼らの語る「恋」のエネルギーは時に人生を変えてしまう程の決断をさせるらしい。何かに挑戦しようと思ったとき、それを容易く後押しするエンジンが彼らの中にはたくさんあるのだろう。実に羨ましい。


とはいえ、そのドラマが美しく見えるのは対岸にあってこそ。
その銃口がこちらを向いた瞬間、わたしにとって「恋」は厄介なものになる。

まず、彼ら(恋をする人々)は「好きになった」ことを盾にいとも容易く他人を攻撃する。
勝手にストーリーの登場人物にされ嫉妬・逆恨みの対象になる「巻き込まれ型」、付き纏い、パーソナルスペースの侵入、個人情報の聞き出しなどの「ターゲット型」。(いま名前決めた)
友愛や親愛、敬愛においては考えられないような行為が恋愛のステージでは当然の如く繰り広げられる。
恋愛を娯楽として捉える人々にとっては面白い刺激なのだろうけど、恋愛をしない・興味のない自分にとってはメリットがなく、ただHPばかり減る謎の迷惑イベントだ。

しかもこの迷惑行為に対して、世間はやけに甘い。
通常の人間関係では許されないことが恋愛のステージに乗った瞬間に「仕方ないもの」になる。ただ「恋をした」から。わからない。
恋愛トークが苦手なのもこれが原因だ。
始めは2人の人間の話をしていたはずが、ステージが変わった瞬間ルールは一変する。いつの間にか「恋したらこうするよね」というどこで習ったのか知らない決まりに従って話が進み、わたしが頑張って馴染もうと捻り出した「恋愛っぽい意見」も(相手の反応を見るに)あまり合ってないようで、空振りに終わる。疲れる。

わたしはそんなよく分からないルールで自分が被った迷惑を許せはしないし、何より「恋って素晴らしいよね」と思い込んでるのが気に入らない。(感情論)
彼らを勝手に“恋愛強者"なんて呼んでいるのだけど、聞いてみたい、「恋心」ってそんなに偉いんですか?って。
エゴイスティックな欲望で他者を振り回す感情が、周囲への迷惑行為の全てを許す免罪符になるほどの素晴らしいものなのかと。



「恋」と関わりたくないもうひとつの理由。

⒈ 好意的な感情には同等の何かを返さなければならない、という強迫観念。(返報性の原理と言うらしい)
⒉「恋は素晴らしいもので、みんなが好きなはず」という社会の圧力。

この2つが、他者とのコミュニケーションにおける「好意」の取り扱いルールとして深くわたしの中に刻まれていて、好意を向けられたとき複合的に自分を苦しめるからだ。


学生の頃、自分のことを好きだという同級生がいた。彼のわたしに対する行動や言葉は驚くほど純粋でいて、彼自身も人望のある素敵な人間で嫌いじゃなかった。
そんな人に好かれたら喜ばなきゃいけないはずなのに、認められることは嬉しいはずなのに、わたしはなぜか彼と同じ感情を持てない自分が惨めに思えた。どこを探しても、彼の持つものと同等の何かが自分の中に見つからない。(その頃のわたしはアロマンティックもアセクシャルも知らなかったけど、自分の中にそういう感情がないことはぼんやり気付いてた。)
相手から「恋」を与えられるたびに、自分には「恋」がない、どこか欠けた人間なのではないかという自責の念に追われ、与えられたものを返せない罪悪感も重なり落ち込んだ。


純粋な片思いは、先制攻撃を仕掛けられたようだった。
先に好意を投げられた時、自分が罪悪感を感じないために出来るのは、最大限の緊張感と配慮を持ち相手を傷つけないように対処すること。それでも慕ってきた人間の手を振り払うのに、何も感じないわけじゃない。相手は悲しんだだろうか、わたしは酷いことを言ってはいないだろうか、不明確なルールで戦うのは正解が分からなくて不安だ。これから関わることもある相手なら尚更、間違いがあってはいけないと慎重になる。(気にしすぎといえばそうだけど)
相手が勝手に好意を持っただけなのに、わたしからは何もしてないのに、罪悪感と配慮を求められる(ように感じてしまう)。なぜわたしがこんなに疲れなくちゃいけないのかと思った。

その点、悪意は扱いが単純なので楽だった。
たいてい分かり易い原因があるから対処がし易いし、原因がなくても無視すれば良い。(好意を無視することは他者からの評判を考えると難しい。) 悪意に対してはなにを返そうとわたしの自由だし、だれも責めない。
同じ「好き」でも見え見えの下心や利益目的の好意が辛くなかったのは、悪意と同じように「真面目に返さなくて良い」安心感があったからだろう。



同じものを返さなくちゃいけない強迫観念と、
同じものを持っていない自責、
結果として返すことのできない罪悪感。

これがわたしが「恋」に対して苦手意識を持っている理由。






「返報性の原理」信仰を手放したい


わたしは幸せな日々が好きなので、この苦手を日常から排除するために試行錯誤してきた。

まず恋愛を免罪符にしようとする人間たちについては現在「関わらない」という選択肢をとっているけど、今後一切関わらないことは不可能だろう。だから彼らの言うルールを許容できる心の余裕を用意するべきか?とも思う。セクシャルマイノリティ 対 世界ではなく、アロマンティック 対 世界は流石に長い道のりになりそうだし。
彼らの大好きな恋愛にそんな価値があるのか?というのはまた考えておきたいけどね。


2つ目にあげた返報性の原理を脅迫的に信じることについては、恋愛以外のシーンでも障害になるのでちょっと治していこうと思っている最中。

実を言うとこの盲信は「恋」に限らず、身近な人間すべてに適用されてきた。その中でも最も付き合いの長い親族はより強い義務を感じさせる。
運良く優しい家族に不自由なく育てらてきた20数年間、わたしはずっと「こんなに恩を貰って何を返せばいいんだ」と怯えていた。学校も仕事も家族が喜ぶすかどうかを基準に選び、自分にかけられた時間と金銭に相応の出来の人間にならなければいけないと思っていた。



まあ、結果としてはその仕事が原因で精神を病んでメンタルクリニックに通院していたとき、「○○しなきゃいけない」という報酬に対しての強迫観念を指摘されたのだけど。面白いきっかけ。


人に貰ったものは大切にしなきゃいけないと思い込み、幼稚園の頃から友人に貰ったプレゼントの包装紙や小さなメモ書きですら捨てられずにいること、20数年も育ててくれた家族には同じ年数以上の愛情と金銭を返さなきゃいけないと考えていること、どんな状況であれ嘘を言ってはいけないと信じていること…。
ほかにも思い返してみると自分だけが信じているルールがたくさんあった。

カウンセリングでは、そのルールが自分で自分を苦しめているから、考え方を変えようという話をした。
例えば誰かにプレゼントを貰った時、彼が1週間悩んで買ってくれたものか、たまたま要らないものがあったからくれたのか。言語外のことは結局憶測でしかないし、人は嘘をつけるから本当のことは分からない。ならばいっそ相手からの感情を必要以上に重く見積もることをやめてしまおう!というアイデアだった。
偶然くれたプレゼントなら、もし同等のお返しが出来なくても罪悪感は薄いし、相手が自分にとって重要な存在に”なりすぎる“ことも防げる。
恋愛についてもそうだ。わたしは「恋」を知らないから劇的ラブロマンス100%の恋心を向けられていると思っていたけど、相手にとっては来年には忘れるような30%の恋心かもしれないんだから。


仕事を辞めたことも、人生のルートを台無しにして家族に申し訳ないと思っていたことも、このタイミングで思考を変換させられたお陰でかなり救われたように思う。カウンセラーさんありがとう。
人と関わることも少し楽になった。
褒めてくれたから褒め返さなきゃ、誘われたから誘い返さなきゃ…そんな面倒を全部やめてやった。誰かが何かしてくれたら、喜んで「ありがとう、嬉しい」と言う。それで終わり。
人間関係を深くしたいとか仲良くなりたい人たちはもっと頑張れば良いと思うけど、考えすぎてしまうわたしにとってはこれがちょうどいい。
「恋」を向けられて応えられなくても罪悪感は感じない。
「わたしたち偶然趣味が合わなかったみたいね」それで終わり。



ついでに副産物として「ま いっか」と思えるようになった。
ぜんぶを真面目に返さなくても大丈夫、そんなにちゃんとしなくても生きていける、と肩の力が抜けたような気持ちだった。完全な50:50じゃなくても、人と人は気分で助け合って生きてる。
思い返すと、この意識転換の前はかなり自他共に厳しいタイプの人間で怒りっぽかった。与えられた報酬に見合わない働きをしない人間は嫌いだったし、イライラしてた。それが許容範囲みたいなものがかなり広がって、そんなときもあるよね、そんな人もいるよね、とのんびり生きてる。すごい
「返さなきゃいけない」ルールは自分に課してたつもりが、きっと他人の行動も勝手に数値化して「やってくれた」「やってくれない」とひとりで不平不満を募らせてたのだろうと気付いて、少し反省した。





生きていくのは少し楽になったけど、全てをやめられたわけじゃない。

やっぱり家族は恩を受けた年月の桁が違って、まだ「返さなきゃ」という気持ちが残っている。
実家に帰るたびに手土産を持ち帰り、家族の好きなものを見つけると送ってみたり、たまに顔を見せに帰ったり、誕生日には電話をするようにしたり、メールの返信をマメにしてみたり。
側から見れば仲のいい家族なんだろうけど、自分でも嫌なのがほとんどを自発的な感情ではなく義務感でやっているところ。(実家に帰って、出来るだけ家族の話を聞くようにしているとき頭の中に「家族サービス」という言葉が浮かぶ。)



家族はみんな良い人たちだから、長年共に過ごしてきた彼らに幸せになって欲しいと思うのは本心だ。

でもそれは、わたしには叶えられない。
恋人を家に連れてきて、家族と話して、子供を産んで、孫(ひ孫)を可愛がって…。わたしの生まれた時から、未来予想図にきっとそれがあったはずなんだ。そんな成長を期待してたはずなんだ。彼らは優しいから誰もわたしに直接言わないけど、親戚の結婚や出産を見ている時の顔を知るとどうしてもそう思えてしまう。
わたしに返すことが出来ないなら、与えられる資格もなかったのではないか。どこかで「こんなはずじゃなかった」と思っているのではないか。
いくら考え方を変えて「彼らが勝手にわたしを産み育てただけ」だと思っても、20年共に過ごした人間への愛着と恩は無視できなくて、返せない申し訳なさが消えないままでいる。


話し合ったら、カミングアウトしたら楽になれるのか。
彼らは本当に優しい人たちだから、「あなたが幸せでいることが1番だよ」って言うのは絶対に確実なんだよ。わたしの周りには何故かそういう人しかいない。自分の想いを押し殺して「あなたが嬉しそうで嬉しい」って嘘つくタイプの人しか。なんでなんだ。
いっそ怒ってくれたら良いのに。
わたしだけが何も返さず、恩だけを受けてのうのうと生きている。

せめて幸せな姿をたくさん見せて、「あなたたちの与えてくれたものは無駄じゃなかったよ」って伝えることしかできないけど、彼らが死ぬ時も思うんだろうな。「希望を叶えられなくてごめんなさい」って。







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