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《寂しさ》って何ですか 〜その1 寂しさハラスメントの対処法〜




こんにちは。友人が次々と家庭を持つようになり、人間との面会チャンスが減ってきた最中にコロナパンデミック。いつにも増してひとり時間を楽しんでいる鬼です。みんな生き延びような。

今回は、スキゾイドパーソナリティ(社会的関係への関心の薄さ、孤独を選ぶ傾向。)とアロマンティック・アセクシュアル(恋愛・性的欲求対象なし)自認かつ、それ以前からもぼっち(あえてこう言う)を極めてきた自分による、
社会からの『寂しいでしょ攻撃』に対するメンタルの持ちようを書いてみます。わーーい


「寂しくないの?」
恋人いない、友達少ない、趣味は一人旅。
そう明かすと返っててくる言葉はだいたいこれ。意図は純粋な疑問だったり、哀れみを含んでたり色々なようだけども、主に恋愛に燃えてるタイプの人間がよく言ってくる気がする。
正直はじめは「なにが?????」という答えしか湧かないくらい相手の問う意味がわからず、真面目に「寂しくないよ」って答えると「強がっちゃって」という激寒クソキモ台詞を引き出してしまうこともあった(私怨)
記憶のある限りでは「寂しさ」と「暇」を強く実感したことがない人生だった(多趣味と没頭癖と飽き性のエンドレススパイラル)ので本当に「なぜ??????」と思いながら受け流してたけど、不思議なことに多数から重ねて「寂しくないの?」攻撃を受け続けると、自分でも「もしかして自分って本当に寂しいのか?????知らないだけでこれが寂しいという感情なのか????」と思うようになってしまう。洗脳ですね。


・みんなは恋人が欲しいって言う 
・友人は多いほうがいいって言う 
・恋人がいない人は「寂しい」って言う 
・友人がいない人は「寂しい」って言う
・たとえ打ち込んでいる趣味があろうと
・たとえ励んでいる仕事があろうと


=もしかして…わたしの人生って「寂しい」…?






怖い怖い怖い怖い怖い!!!!!そんなわけないのに!!!!
お前の幸せはお前の幸せーーーーー!!!!!!
わたしの幸せはわたしの幸せーーーーーーーー!!!!人それぞれーーーーーーーーーー!!!!!

今では分かりきったこんな答えも、Aセクもスキゾイドも知らない頃の幼い自分は分からなかった。
ちょうどその頃、友達がいないキャラクターを主人公にしたアニメやマンガ・小説が流行っていた。本音では友達や恋人が欲しいのに、素直になれない不器用さが可愛いみたいな美少女キャラクターとか、ツンデレみたいなものが持て囃されてた。
それもあって、1人でいることや本音で答えた「寂しくない」って言葉がどうしても強がりに聞こえてしまって恥ずかしかった。嫌だった。

何年かはモヤモヤしながら、偶にはあえて〈友達欲しいのに人見知りでできないキャラクター〉をのフリをしてみたり。

そんなとき、急に雨が止んだみたいに理解したことがある。
「1人◯◯、どこまで行ける?」
よくある会話の中、寂しさを感じるボーダーラインをお互いに測る、なんでもない雑談。
「ひとりファミレスは無理」「ファストフードはいける」「ドライブはひとりがいい」とか、聞いてると結構みんなバラバラだった。理由もそれぞれ。

単純なこと、「寂しくないの?」派閥の人と自分ではそもそも欲してるものが違う。
例えば旅行をするとして、綺麗な景色を眺めて得た感情を「きれいだね」って誰かと共有することで満たされる人は、他者と共感(同調?または対話)し合うところまでが旅行。
対して自分は、得た「きれいだなあ」って感情をゆっくり味わって飲み込んで、自分の身体の一部になるように大切にしまう感覚。だから1人だとしても目的は果たされているし、満たされる。
彼らからしたら1人でする旅行は、あるはずの共感を得られない状況にいる《寂しい》ものに見えたんだろう。けど、こちらからしたらもとより項目にない共感を得られないとしても《寂しい》わけないんだもの。わたしも彼らもおかしくない、もとより言語外の認識が違っただけ。


それが分かってからは、自分にとって何が必要かを第一に考えるようにした。寂しいかどうか決まるのはそれ次第だから。

大辞林先生によると、《寂しい》ってのは
①あるはずのもの、あってほしいものが欠けていて、満たされない気持ちだ。物足りない。
② 人恋しく物悲しい。孤独で心細い。
③ 人けがなくひっそりしている。心細いほど静か。

世の中で目にする耳にする《寂しい》はだいだい②か③の状況が多くて、温もりが欲しいとか優しさに触れたいとかざっくりしたイメージの「人間と接触したい」欲求のことだと思ってた。
自分の持ってる《寂しい》はきっと違う。①のほう。
予定してた旅行が無くなった、1人の時間が得られない、それこそがわたしの《寂しい》、満たされない気持ちのことだ。寂しいの対義語って何なんだろうと思ったけど《充足感、満足感》あたりかな。

こんなこと書くといろんな人に怒られそうだけど、学生の頃「友達と毎日顔合わせるの辛い」って理由で学校サボったことがあった。ずっと人に囲まれてる環境が辛くて、保健室行くふりして空き教室でボーッとしてたり、登校途中の公園で日向ぼっこしたりしてた。誰もいない渡り廊下の温度も、畦道の緑の鮮やかさも今でも鮮明に思い出せる。今思えば自分にとって何が幸せかはっきり自覚できたのはあの頃かもしれない。周りの《寂しさ》に合わせた結果、身の丈に合わない分量の人間関係を浴びて過積載状態だった。だから離れた。あれも必要な時間だった。
それでも側から見たらわたしは《ひとりで寂しく》見えていたみたいで、教員の方には友達がいるかとか心配されたけど、もう自分が満たされる場所が分かっていたので何を言われても動じなかった。
その気持ちがだんだん態度に現れていったみたいで、周りの人がプライベートな距離を詰めてくることも減った。マイペースだねとか1人でも楽しそうだねとか言われることが増えた。ありがたい
「2人組作ってー」のとき奇数グループ探して「わたし余ってるから組んで〜」って言うタイプの奴だった。お昼は空き教室で映画見ながらぼっち飯するの。デザートと紅茶付き

〈誰かとずっと一緒にいなきゃいけない〉謎の使命感(一般論)から解放されて1人になってみたけど「寂しい」と思うことはやっぱりなかった。自分の必要なもので満たされていたから。きっと自分にとっては1人の時間が あるはずのもの で、やっと満たされたってこと。みんなにとっての幸せが自分の幸せとは限らない。



この自己肯定感はスキゾイドパーソナリティからくるものだったのか、本来の性格なのか、運良く環境に恵まれたからなのか、その全てなのか分からないけど。自分の幸せが何か分かってるって、生きてて楽しい性格でよかったなーと思う。
今でも判断するときの基準にしてること、なんか苦しいなって思ったときは「じゃなきゃいけない」ことをぜーーんぶやめて、しっかり考えて、最終的には自分の心地よさを信じたほうが幸せになれる。結局、良くも悪くも世界は自分の目から見たようにしか見えないから。





まあ、正直それだけでは生きていけないこともあるので次題へ続く!


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