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私の飛んだ思い出

 あれは、とても暑い夏の朝だった。背中が濡れている不快感で目が覚めた。シーツには、アスファルトに広がる水たまりのように寝汗が滴っている。そこからいつまでも身体を起こすことができずにいた。スマホで時刻を確認すると、普段なら電車に乗っている時間だった。始業の時刻にはもう間に合わない。職場にメールで遅刻の連絡をしなくてはと思った。私の中に残る最期の正義を振り絞り、ベッドから手を伸ばした。床に投げ捨てられていたバッグをなんとか手繰り寄せ、中からノートパソコンを取り出した。しかし、電源キーを何度押しても画面が黒いままだった。なるほど、昨日寝る前に充電するのを忘れてしまい、あいにく電池切れだった。私は許された気がして、会社に行くのを止めた。元々そんなに行く気はなかったのだけれど、全て起動しないノートパソコンのせいにした。空っぽになった正義を胸に抱き、私は再び眠りについた。

 私は当時、流行していたスマホゲームの新規開発に携わっていた。私には、キャラクターや敵の強さ、ガチャの確率、イベント運営スケジュールなどを決める大事な役割が与えられていた。私が決めた内容で、他のメンバーが作業を開始する。すでに当初の予定より三ヶ月遅れていた。ゲームはまだ全体の半分しか完成していなかった。遅くとも九月中にはリリースできないと、下半期の売上に寄与できなくなる。それは、私だけでなく、チームメンバー全員の評価が最低になることを意味している。私の左の席のプログラマーは六月に子供が生まればかりだ。右の席のデザイナーは、今度新築の家を建てるのにローンを組むらしい。世の中知らなくていいことだらけだった。リリースが遅れたり、中止になってしまうことよりも、彼らの怨嗟が私に向けられることのほうが恐かった。

 結局私はその後、会社に行くことは無かった。一週間後、会社の人が何人かで家を訪ねてきたが、居留守を使った。心配しているのか、恨んでいるのかわからなかった。会社は解雇されたが、元々給料を使う暇がなかったので、働かなくてもやっていけた。私が担当していた新しいゲームは、結局その会社からリリースされることはなかった。

 数年後、私はゲームとは関係ない仕事に就いている。あの時の経験を活かし、自分の力量を超えた仕事は引き受けないよう気をつけている。心に余裕があるせいか、今のところ生活は順調で、新しく恋人もできた。そんな中、最近一つだけ気がかりなことがある。私の恋人が、以前私が担当していたあのゲームをプレイしているのだ。話を聞くと、どうやら違う会社からリリースされたらしい。恋人がゲームを起動すると、タイトル画面で二本の剣がクロスし、「キン!」という刃がぶつかり合う音が流れる。その音を聞く度に、あの日の汗で濡れたシーツの不快感が、私の背中に蘇ってくるのだった。

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