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【テリー・ウィットフィールド】貧しい家庭に生まれ MLBドラフト1巡目でメジャーリーガーになるとジャイアンツのレギュラーとして活躍 発展途上だった西武ライオンズに新風を吹き込み王者に変貌させた巧打者

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、テリー・ウィットフィールドを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=c6D39_Bkqqs

1953年、アメリカ合衆国カリフォルニア州の
貧しい家庭に生まれたテリーは
リトルリーグで野球を始めると
教育ママだった母親から
右利きをやめて左打ちに変更されました。

守備にまで細かく注文をつけるグラウンドママのもと
才能を伸ばしていくとパロベルディ高校を
卒業した1971年、MLBドラフト1巡目で
ニューヨーク・ヤンキースに指名されて入団、
1974年にメジャーデビューを果たします。

1977年、サンフランシスコ・ジャイアンツに
移籍してからはレギュラーとして活躍、
1980年もクリーンアップを任されて
118試合に出場、打率2割9分6厘、4本塁打、
26打点の活躍を見せました。

ちょうどその頃、西武ライオンズは
バリバリのメジャーリーガー、
スティーブ・オンティベロスが加入した事で
優勝争いを展開すると、これを見た堤オーナーは
「スティーブ1人でここまでチームが
変わるなら彼以上の大リーガーをもう1人
加えたら優勝できる」と
サンフランシスコ・ジャイアンツの外野手として
レギュラーを張っていた
中距離ヒッターに目を付けたのです。

西武グループの圧倒的な資金力を
背景に年俸6000万円のほか
トレードマネーや滞在費など含めて
3億円を投じて交渉を開始すると
身長185センチ、体重89キロの28歳は
3年契約で合意、
「なぜジャイアンツはこの選手を
手放してしまうのか。彼は
日本球団が獲得しうる限界を超えた選手だ」と
驚きをもって伝えられる中、海を渡って来たのでした。

ファーストネーム「テリー」で登録された
メジャー7年間で通算打率2割8分8厘の
アベレージヒッターは開幕直後こそ
日本投手の攻め方に戸惑ったものの、
5月半ばにはすぐにアジャスト、
1年目から打率3割1分6厘、22本塁打、
100打点の好成績で
ベストナインに輝いたのです。

9月のホークス戦でファーストに頭から滑り込み、
左手親指を骨折した助っ人は
「一塁へのヘッドスライディングが
ナンセンスな事は知っているけど
試合の流れを変えたかったんだ」と
チームを鼓舞するハッスルプレーを見せたほか、
雨天中止となった西武球場に
ベーブ・ルースに扮した格好で現れると
「このまま帰ったらファンはつまらないだろう」と
ダイヤモンドを一周して水しぶきをあげながら
ホームにダイビングするパフォーマンスを見せました。

翌1982年は根本監督に代わり就任した
広岡監督のもと
122試合に出場して打率2割7分2厘、25本塁打、
71打点と変わらぬ活躍を見せると
中日ドラゴンズを下して
球団初の日本一に輝いたのです。

その日の名古屋から帰り道、新幹線で銀座の
高級クラブに直行する主砲、田淵から
「テリー、スティーブ、
今日は飲みまくろうぜ」と声をかけられると
同じくエース東尾からも
「ユーたちと一緒じゃなきゃ意味がないだろ」
と誘われた背番号45は
普段は一切酒もタバコも口にしませんでしたが
「本当に嬉しいよ、ワインなら少しは飲めるさ」
と仲間の優しさに感激して
上機嫌にグラスを傾けました。

さらに当時としては異例のハワイV旅行にも
家族で招待されたテリーは
その球団のサポートに応えようと
合気道の精神を学び、好んで寿司を食したり
パチンコ通いも経験するなど、
すっかり日本人に溶け込んだ3年目、
極端なクラウチングスタイルから
上体を起こした
オーソドックススタイルにチェンジしたのです。

同僚の田淵らとタイトル争いを展開するなど
129試合に出場して打率2割7分8厘、38本塁打、
109打点でリーグ連覇の原動力になると
テレビ視聴率40%を超えたほど注目された
巨人との日本シリーズ第7戦の7回裏に
ドラマが起こりました。

史上最高とも称された熱戦は3勝3敗で
最終決戦を迎え、巨人2点リードの展開ながら
ノーアウト満塁で打席に立ったテリーは
広岡監督から「センターに打て」の指示を
受けると、外角低めのシュートをさからわず
逆方向に走者一掃の逆転二塁打を放ったのです。

これが決勝点となり打倒巨人の悲願を成し遂げて
日本一を実現させた助っ人でしたが
広岡流の激しい練習や罰金システムなど、窮屈な
管理野球を嫌って退団の道を選ぶと
1984年1月12日、ロサンゼルス・ドジャースと
年俸20万ドルの
3年契約を結んでメジャー復帰を果たしました。

ドジャースとの契約を満了して引退したテリーは
サンフランシスコで野球を教えていましたが
2019年8月7日、西武ライオンズOBとして
始球式に登場し
「久しぶりの西武のユニホーム、
入るか心配していたけど
スリムでよかったよ、屋根が付くと雰囲気が違うね。
この西武ドームでもプレーしたかったな。
引退後も仕事の関係で日本には何度か来たけど
22歳の息子も日本球界入りを望んでいるんだよ」と
元気な姿をファンに見せたのです。

大舞台と初球にめっぽう強い超積極的な助っ人は
36インチの特注物干し竿バットで、糸を引くような
ラインドライブのホームランを放つと
日本で覚えた「礼」を重んじる精神から
ホームイン後にヘルメットを取って
観客席に向かい一礼するなど優しさと
礼儀正しさを兼ね備えていました。

「小さい頃、私も大リーグが見たかったけど
貧しくて見られなかったんだ、あの辛さを
他の子供たちには味わって欲しくないね」と
西武球場の年間シートをポケットマネーで買い取り、
テリーズ・ボックスと名づけた席に
恵まれない子供たちを招待していたのです。

秋田で行われた試合中、少年3人組からの
「テリー、テリー!」の大合唱を背に
ホームランをかっ飛ばした助っ人は
翌年、その少年や兄弟を西武球場に招待したほか
母国の幼稚園に通っていた息子チャールズ君に
定期的にプラモデルを作っては贈っていた
良き父親ぶりに
第1回ベスト・ファーザー イエローリボン賞にも
輝きました。

新幹線を体験したくて、飛行機移動を
断った庶民派大リーガーは
グラウンド内外で日本球界に新しい価値観を
もたらし、常勝軍団、西武ライオンズの
礎を築いた心優しきチビっ子たちのヒーロー、
テリー・ウィットフィールド

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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