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【トーマス・オマリー】アメリカで伸び悩んでいた助っ人は人生で最高の決断をして来日 猛虎の中心となり首位打者を獲得したのち 日本を代表する名将 野村監督の元で伝説の14球を演出 日本一の四番打者になった

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はトーマス・オマリーを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=yZDzWNZGdb8&t=19s

1960年、アメリカ合衆国ニュージャージー州に
生まれたオマリーはモンターズビル高等学校
を卒業した1979年、MLBドラフト16巡目で
プロの道を歩み始めると
1982年5月8日、
サンフランシスコ・ジャイアンツの一員として
メジャーデビューを果たしました。

2年目にはレギュラーとして135試合に出場し
100安打以上を放ちましたが、その後は
メジャー定着とは行かず、
ホワイトソックスやオリオールズなど
9年間で6球団を転々とする日々を
送ります。

通算13本塁打と伸び悩んでいた30歳の秋、
メッツでくすぶっていたオマリーは
「とにかくチャンスが欲しかった。
1打席の結果だけでなく、3打席、4打席と
打席に立たせて欲しかったんだ。
このままメッツに残るより、
もっと試合に出られるチームに移籍しようと
2年前からオファーをくれていた
阪神に電話したんだよ。
あれは人生で最高の決断だったね」と1991年、
身長185センチ、体重88キロの助っ人は
海を渡って来たのでした。

来日当初、野球関係者の下馬評は
「守備は上手いが、バッティングは非力で
総合評価はC」とされ、阪神首脳陣も
「ロバート・レッドフォード似の
イケメンで独身だから女性ファン獲得には
面白い選手だね」とビジュアル面の期待に留まり
野球の方ではメジャー経験が豊富な
同僚マーベル・ウインに頼っていたのです。

しかし春季キャンプを視察した
川上哲治氏は「今年の外国人選手で一番だ」と
評価、その言葉通り、
1年目から130試合にフル出場して打率3割7厘、
21本塁打、81打点と安定感のある打撃で
見事に結果を残しました。

翌年は横浜を解雇された友人パチョレックを
誘って阪神に入団させ、OP砲と呼ばれた
クリーンナップを形成すると
新庄、亀山ら若手選手の成長も重なり
チームの2位躍進に大きく貢献したのです。

最終的には打率3割2分5厘のハイアベレージに
ここから4年連続となる最高出塁率のタイトルも獲得、
転向したサードの守備では
ゴールデングラブ賞に輝きました。

来日3年目となる1993年も前半戦から好調を
維持すると、選出されたオールスターゲームで
MVPを獲得、ヒーローインタビューで放った
「阪神ファンは一番や」の決めゼリフで
虎ファンの心をがっちり掴んでいた
イケメン助っ人は
同時期に在籍していたパチョレック、
郭李建夫(かくりたてお)それぞれの頭文字から
PKO問題と報じられるほど熾烈な
外国人枠争いを展開します。

その中でも頭ひとつ抜け出したオマリーは
リーディングヒッターだった横浜のローズを
最終戦、第1打席で逆転すると
第2打席も意表を突くセーフティバントを決めて
打率3割2分9厘に上げ、首位打者を獲得しました。

その人気に目を付けたレコード会社は
日本語と英語で六甲おろしを歌わせたCDを発売、
その驚愕の音痴ぶりに
「最初はバットの振り方を英語で解説する
はずだったのに、なぜか歌うことに
なったんだ。下手なりに頑張ったし
CDも売れたみたいだから、いい思い出だよ」と
その人気は留まる事を知りません。

翌1994年も打率3割1分4厘と変わらぬ活躍を
見せましたが、2年前に虎ファンから
史上最低のトレードと言われた
野田と松永の移籍をオリックスと実行していた
阪神は、今回も密かに優良助っ人を
オリックスに金銭譲渡する計画を
画策していました。

甲子園の大声援に「世界中を探したって、
こんなに熱狂的でエネルギッシュな
応援はないよ」とファンと相思相愛だった
オマリーでしたが、球団フロントの評価は
それとは180度異なっており、
2億円を越える高額年俸に加え、
仲のいい新外国人選手を強引に推薦してきたり、
ヒザが痛いと三塁の守備を拒否するなど
オーナーの言葉を借りれば
「ヤンチャ坊主がそのまま大人になった」ような
素行から、他選手への悪影響を危惧して
契約不継続を通達したのです。

表向きは15本だった本塁打が少ないから、として
計画通りオリックスに金銭トレードされるはず
でしたが
「俺はセリーグ投手のクセを熟知している。
これを無駄にはしない」と
強いセリーグ志向を示してこのプランを拒否、
松井秀喜の代理人にもなった辣腕エージェント、
アーン・テレム氏が間に入って
他球団との交渉を開始しました。

焦った阪神から
「オリックスとの入団交渉を最優先して欲しい」と
懇願されたものの頑として受け入れず、
交渉は難航すると、相手の投球データを細かく
分析して打席に立ち、
右投手の時は920グラムの黒バットを使い、
左投手の時は外に逃げて行く変化球を
ギリギリまで引き付けてライトへ引っ張る
ためにと少し軽い900グラムの白バットを使用するなど
器用に使い分けていた助っ人を、12球団で
ナンバーワンと評価していた
ヤクルト野村監督が獲得に乗り出します。

「野村さんはいつも俺の打撃を崩そうと
してきて嫌だったんだ。その人が味方になるなんて
こんなに嬉しいことはないね」と両者の思惑は一致、
年俸1億7500万円でヤクルト入団が
決まったのでした。

阪神でヤンチャ坊主と言われた助っ人に対して
野村監督は
遅刻してくれば休日をとりやめ練習指令を
出し、他のナインと一緒に5000メートル走も走らせる
など、特別扱いせずに接すると
かつては
神戸の高級マンションにメイドまで要求
していたのが嘘のように、ほかの外国人選手と
同じマンションに住み、大好きなビールを断ち
責任感のあるリーダーへ生まれ変わったのです。

移籍当初はホームランの打てない
外国人選手を獲ってどうするんだという
声もありましたが、緊張感を保った
新生オマリーは本拠地初戦から
3打席連続本塁打の大爆発、
4月末に行われた阪神との甲子園三連戦でも
3試合連発を披露して、終わってみれば
打率3割2厘に、87打点、ホームランは
自己最高の31本を記録しました。

広沢、ハウエルといった長距離砲が
ジャイアンツに移籍したチームの中で
恐怖の8番打者ミューレンとのコンビで親しまれ、
「ヤクルトファンの応援ください」の
新たな決め台詞とともに
セ・リーグMVPを獲得する活躍を見せて
チームの独走優勝に貢献したのです。

さらに進出した日本シリーズでは
因縁のオリックスと対戦、
「野村ID」対「仰木マジック」の戦いの中で
打率5割2分9厘、2本塁打の驚異的な
数字をマークしてテッペンに立ったばかりか
外国人選手として日本プロ野球史上初めて
ペナントレース、
日本シリーズ、オールスターゲームの全てで
MVPに輝く快挙でした。

さらにこのシリーズでは
球史に残る名勝負が繰り広げられます。

3連敗して後がなくなったオリックスは第4戦、
1対1のまま延長戦に突入すると5番手として
翌日の先発とも言われていた24歳の
小林がマウンドに上がりました。

11回裏ヤクルトの攻撃は1アウト1、2塁、
一打出ればサヨナラで日本一となる
緊迫した場面で打席に立つのは
無双状態となっていた4番オマリー、
この打席までのシリーズ成績は
13打数7安打、打率5割3分8厘、
1本塁打と
手のつけられない状態だった背番号3に対して
オリックスは前日先発したばかりの
星野を準備しましたが仰木監督は小林の続投を決断します。

オマリーに対して1ボール2ストライクから
ボールとなった2球を含めて8球連続ファウルの
10球は息もつかせぬ時間となり
ライトポール際へサヨナラホームランかと思われる
大ファールを2発撃たれるなど
首の皮一枚繋がっている緊迫感が球場全体を
包んでいきました。

この対決が始まった時点で時刻は22時を回り
鳴り物が禁止されていた事から
観客のどよめきだけが響きわたる
異常な光景の中、フルカウントから投じた
小林渾身の14球目をオマリーがフルスイングして
空振り三振したシーンは今でも野球ファンの間で
語り草となったのです。

12分20秒にも渡る緊迫した名勝負を
繰り広げた小林はキャッチャー中嶋のサインに
一度も首を振らず
江夏の21球以来となる日本シリーズでの
名勝負とされ
フジテレビの中継では瞬間視聴率55.9%を
叩き出しました。

「全部、中嶋さんのサイン通りです。
僕がサインに首を振らなかったというよりは
首を振っても中嶋さんが同じサインを
出してくるんです」と小林は語り、

全力で応えたオマリーも
「お互いに全てを出し切った勝負だったよ。
優勝はしたけど、あの三振だけは今でも悔やまれるね」
と球史に残る名勝負を思い返しています。

「阪神を解雇されてヤクルトに拾われた年に
阪神に20勝6敗と大きく勝ち越して優勝なんて
私が主人公の映画みたいだね、東京は外国人も多くて
息抜きする場所がたくさんあるし、家も神宮球場から
近くて野球に専念できたのが良かったね。
野村さんはよく話もしてくれるし
スランプから抜け出すアドバイスもくれたよ」と
名将との出会いに恵まれたオマリーは
翌1996年も打率3割1分5厘、18本塁打、97打点の
好成績を残しましたが、その年のシーズンオフ、
36歳という年齢や高年俸に加え、巨人を退団した
落合の獲得を野村監督が
強く望んだためにまさかの解雇となりました。

すると西武ライオンズが獲得に乗り出し、
次の監督を探していた阪神もプレイング・マネージャー
として検討しましたがどれも実現せず、帰国したオマリーは
テキサス・レンジャーズの招待選手として
キャンプに参加していましたがメジャー昇格とは
ならなかったことから引退の道を選びます。

引退後はアメリカ独立リーグの監督や
野村監督が就任した阪神の打撃コーチなどを歴任し
ジョージ・アリアスやトレイ・ムーア、
ジェフ・ウィリアムスらを指導したほか、
阪神の駐米スカウトや代理人、アメリカの
高校ソフトボールチームのコーチにも従事、
「時間に余裕を持って行動する事など若い頃から
良い習慣を身に付けるように指導しているよ」と
日本の経験を生かした指導力は高く評価されました。

選球眼に優れ、深い洞察力で投手の配球を読み、
パワーはあるが、本塁打を狙わず、
しっかりと安打が打てる安定した打撃と
ゴールデングラブ賞を獲るほどの守備力も
兼ね備えた助っ人は、
ガムを噛みながらオープンスタンスで打席に立つと
長嶋茂雄に憧れて真似したという小さなヘルメットを
浅めに被り、スイングするたびにヘルメットを飛ばして
ファンを魅了したほか、中日の立浪氏がタイミングの取り方を
教えてほしいと懇願にくるほど一流の打撃術を有していたのです。

2004年、近鉄とオリックスの球団合併問題を受けて
ライブドアがプロ野球界に新規参入した場合の監督は
オマリー氏だった事を考えるとその手腕を見たかったと
思わせるほどの頭脳派は、縁起がいいからと
アメリカ時代から愛用していたグレーのアンダーシャツを
着用し、逆転のおまじないだという帽子を前後逆に被る
メジャーリーグ流のジンクスもベンチに持ち込みました。

通算打率3割1分5厘のハイアベレージを残し、
外国人選手初の来日から6年連続3割や
出塁率4割2分2厘という驚異的な成績で
記録にも記憶にも残った名助っ人、トーマス・オマリー。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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